連載日本史183 文明開化(2)
1873年(明治6年)、啓蒙思想家たちが集まる明六社が結成された。後に初代文部大臣となる森有礼を社長とし、福沢諭吉・中村正直・加藤弘之・西周らが集った同社は、機関誌「明六雑誌」を発行し、欧米の近代思想を日本に広める活動を精力的に行った。
慶應義塾の創始者でもある福沢諭吉は、「西洋事情」で欧米諸国を紹介し、「文明論之概略」で個人や国家の独立のために西洋文明の摂取が必要だと説いた。「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」という冒頭のフレーズで有名となった「学問のすすめ」では、一国の独立のためには個人がそれぞれ学問を身につけて独立を果たすことが重要だと述べ、旧来の身分制を打破して学問を修めることで立身出世を遂げることができる社会の到来を宣言し、当時の大ベストセラーとなった。中村正直は「西国立志編」でスマイルズの「自助論」、「自由之理」でミルの「自由論」を翻訳、西周は「万国公法」で近代国際法を初学者向けに翻訳した。
明六社以外にも、この時代には多数の啓蒙思想家が現れた。「民権自由論」で民権思想を平易に説いた植木枝盛、「民約訳解」でルソーの社会契約論の一部を漢訳した中江兆民らは、後に私擬憲法草案を作成したり国会開設後は自ら議員として立候補したりと、自らの行動によって理想の実現を図った。こうした啓蒙思想家たちの精力的な活動は、単に物質的な面だけでなく、精神的な側面からも開化を進めなければ、真の文明国とは言えないという強い意識に支えられていたと思われるが、それは武士道精神の延長線上にあるものだったかもしれない。
開化期には多くの新聞が生まれた。1868年には官報としての太政官日誌、1870年には横浜毎日新聞、1872年には東京日日新聞などが次々と創刊されている。一方で政府は、同時期に高まりつつあった自由民権運動への警戒から1875年に新聞紙条例・讒謗律を相次いで制定し、反政府的な言論の抑圧を強めた。そのあおりで明六雑誌も廃刊の憂き目に遭った。言論の自由と抑圧の綱引きは、文明開化の時代から、常に繰り返されてきた問題であったのだ。
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