連載日本史209 産業革命②
産業革命の進展に伴い遠洋航路も拡大した。1896年の航海・造船奨励法が大型鉄鋼汽船の建造・就航を後押しした。日本とインド・台湾・ヨーロッパ・オーストラリア・北米・南米などを結ぶ定期航路が開かれた。1885年と1900年の輸出入内訳を比べてみると、輸出では綿糸や絹織物が急増し、輸入では綿糸が姿を消して綿花がトップの割合を占めている。また、輸入総額は約10倍、輸出総額は5.5倍に増えている。つまり、軽工業での産業革命を達成したことで原料輸出国から加工貿易国に転じ、輸出量は拡大したものの、それ以上に大幅な輸入超過によって貿易赤字はむしろ増えているのである。これは人口増加や消費水準の上昇による内需拡大にも原因があると思われるが、日本の産業革命自体がアンバランスなものであったことを示唆しているとも言える。
日露戦争後の韓国・台湾・関東州(満州南部)との貿易内訳を見ると輸入・移入の最上位はいずれも米・大豆・砂糖などの農産物が占めている。だが、砂糖はともかく米や大豆は当時の日本の農地で十分自給可能だったはずだ。その背後には寄生地主制の存在があった。農村での貧富の差の拡大が、自らは農業に従事せずに小作人からの高額な小作料で財を成す少数の寄生地主と自らの土地を持てずに耕作に従事し地主に高額の小作料を納めて貧窮した生活を送る多数の小作人との階層分化を促進していたのだ。経済力を有する寄生地主たちは政界に影響力を持つとともに、利益を農民にフィードバックするのではなく、他の儲かりそうな事業に投資して更に資産を増やしていたのである。結果的に内地での農業分野の発展は遅れ、食糧生産において植民地への依存を強めざるをえず、その植民地を維持するために軍拡に走らざるをえず、軍需産業への投資が突出して増大することで農業分野の発展が更に遅れるという悪循環に陥っていたのであった。
産業革命の急速な進展は労働問題や公害問題をももたらした。1880年代には低賃金や長時間労働に抗して甲府雨宮製糸工場や大阪天満紡績工場で女性労働者たちのストライキが起こった。また、高島炭鉱では労働者の虐待が発覚し社会問題となった。1890年代には足尾銅山の鉱毒被害が明らかになり、衆議院議員の田中正造の追及にも関わらず政府は対策を講じなかったので、田中は議員を辞職して天皇への直訴を試みた。直訴は失敗に終わったが、田中はその後も現地住民とともに鉱毒問題に取り組んだ。
1890年代後半になると労働組合結成への動きが高まった。しかし政府は1900年に治安警察法を公布して弾圧に臨んだ。社会主義への関心も高まり、安部磯雄・幸徳秋水・片山潜らが1901年に日本初の社会主義政党である社会民主党を結成したが、政府は翌日には解散命令を発した。その後も政府は社会主義者を徹底して弾圧し、追いつめられた社会主義者の一部が過激化するという悪循環を経て、国際的にも大きな非難を呼んだ明治最大の冤罪事件である大逆事件へと行き着くのである。
大逆事件の翌年の1911年、日本初の労働者保護法である工場法がようやく公布された。しかし桂内閣は、同年に警視庁に特別高等課(特高)を設置し、思想統制と社会主義者弾圧を更に強めようとしていた。
こうして見ると、日本の産業革命は、やはり大きく歪んだ道程を辿っていたと思わざるをえない。その歪みを生んだ政・官・財、さらには司法まで及んだ癒着構造は、結局、敗戦によってGHQに強制的に解体させられるまで、自ら浄化することはできなかった。明治は遠くなりにけり。しかしこれは、決して遠い話ではないような気もするのである。