連載日本史229 満州事変(1)
1930年11月、ロンドン海軍軍縮条約への調印に反発する右翼の青年に狙撃され、浜口首相が重傷を負う事件が起こった。首相は翌年死去し、代わって第二次若槻礼次郎内閣が成立した。後にテロの時代と評される1930年代の幕開けであった。
浜口首相の狙撃事件の二ヶ月前には、陸軍中佐の橋本欣五郎らを中心として秘密結社の桜会が結成されていた。未遂に終わったものの、彼らは若槻首相を暗殺して陸軍皇道派の荒木貞夫を首班とする軍事政権を樹立するというクーデター計画を立てていた。完全なテロ組織である。背後には民間右翼の大川周明や、国家改造運動を唱えた思想家の北一輝らの影響があった。
一方、「世界最終戦論」を展開し、ソ連や米国との戦争に備えて満州全土を支配下に置こうとした関東軍参謀の石原莞爾らは、1931年9月、奉天郊外の柳条湖において南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国軍の仕業として軍事行動を起こした。若槻内閣は不拡大方針を表明したが、関東軍はそれを無視して占領地を拡大し、朝鮮駐留軍の越境による援護も得て、満州全土を制圧した。完全に関東軍の独断による暴走であったが、陸軍中央はこれを追認して満州国建国の計画を進め、世論やマスコミも軍の行動を支持したので、若槻内閣は総辞職し、代わって立憲政友会総裁の犬養毅が首相に就任した。ここに協調外交の流れは完全に潰えたのである。
石原は満州全土を短期間で制圧することに成功したが、中国との全面戦争を望んでいたわけではなかった。むしろ彼のビジョンによれば、来るべき米国との戦争に備えて中国とは協力関係を築いておかねばならないはずだった。しかし関東軍の独断専行による満州事変は、日本軍の戦力への過信を招き、さらに現地部隊が中央政府の命令を無視して暴走しても、結果さえ良ければ処罰されないという前例を作ってしまった。後に日中戦争が勃発した際に不拡大方針を主張した石原は、主戦派から「何がいけないんです? 我々は貴方が満州でやったことと同じ事をしているんですよ」と反論されて苦しんだという。
1932年3月、満州の占領を完了した関東軍は清朝最後の皇帝溥儀を執政として、満州国の建国を宣言させた。満州国は独立国として新京(長春)を首都に定め「五族(和・韓・満・蒙・漢)協和の王道楽土」をスローガンとしたが、実際には日本の傀儡政権にすぎなかった。