連載日本史75 執権政治(1)
北条義時の死後、執権の地位を継いだ泰時は、執権補佐としての連署と十数名の有力御家人からなる評定衆を設置し、合議制による意思決定を建前とした。北条氏嫡流の独裁体制とみられないようにするための配慮であろう。1226年には、藤原摂関家から、九歳の九条頼経を第四代将軍(摂家将軍)として迎えた。北条氏は将軍にはならず、あくまで将軍補佐としての執権の地位にとどまることを示したのである。もちろん実質的な権力は執権の北条氏がおさえる。いわゆる執権政治である。
それにしても、摂関政治といい、執権政治といい、なぜ日本の政治では、トップではなく、ナンバーツーが実権を握る方が安定するのだろう? これは政治だけでなく、企業経営や組織運営にも広く共通するテーマかもしれない。北条氏が自ら将軍に就かなかったのは、周囲の反発を恐れたためでもあろうが、トップよりもその補佐としての執権の方が自由に権力をふるうことができるという計算もあったのではないかと思われるのである。
1232年、泰時は武家の法としての御成敗式目(貞永式目)を制定した。頼朝時代の政治や裁判を先例とし、武家社会の慣習や道徳を基準としたものであった。これは特に、御家人同士や御家人と荘園領主の間の紛争を公平に裁くための基準法として機能した。従来の法と比べての特徴は、知行年紀法(年紀の制)と呼ばれるシステムで、所領・所職の不知行から二十年を経過すれば、知行回復の請求権は失われるというものである。現代に置き換えれば、空き家を二十年放置すれば所有権がなくなるというイメージだろう。時間軸を基準に権利の有限性を示したこの発想は、後世の法律にも大きな影響を与えた。権利は、それを維持するための努力を怠れば、自動的に消滅するのである。
御成敗式目は当初は武家社会のみの法とされ、幕府の支配領域のみで通用するものだった。朝廷側の支配領域では公家法、荘園領主の支配領域では本所法というように、適用範囲が異なっていたのである。しかし、幕府の勢力伸長とともに御成敗式目は次第に適用範囲を広め、やがては中世法体系の中核となっていく。それは武士の価値観が全国に浸透していく過程でもあった。
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