連載日本史172 幕末(7)
1867年10月、土佐藩からの進言を受け入れた徳川慶喜は朝廷に政権を返上した。大政奉還である。奇しくも同じ日に薩長に対して討幕の密勅が下った。間一髪である。幕府を倒すと言っても、当の幕府が朝廷に政権を返上してしまっているのだから話にならない。結局、朝廷は翌週には討幕中止を指示。討幕派は完全に気勢をそがれ、当面の武力衝突は回避されたのであった。
大政奉還の翌月、その立役者であった坂本龍馬が、盟友の中岡慎太郎とともに、京の近江屋で暗殺されるという事件が起こった。当時は下手人不明とされ、さまざまな憶測が乱れ飛んだが、後々の関係者の証言から新撰組同様に京の治安維持部隊であった見廻組の佐々木只三郎らの犯行であったことが、ほぼ確実視されている。同年五月には、長州の風雲児であった高杉晋作も既に病死しており、先見の明を持った時代の変革者たちが、相次いで世を去ったことになる。
龍馬や高杉が生きていたら歴史はどう動いたか。それは誰にもわからない。激動の時代には、ほんの少しの入力差が、大きな出力差へと結びつくことがままある。特に龍馬の死は、大政奉還後の政権内のパワーバランスに少なからず影響を与えたはずである。朝廷の下で徳川慶喜を盟主とする雄藩連合政権を構想する土佐藩ら公議政体派は、薩長を中心とした武力討幕派に押され気味になっていった。12月には王政復古の大号令が出され、それに続く小御所会議では、討幕派の公卿・岩倉具視や薩摩の大久保利通らと公議政体派の山内容堂らの激論の末、徳川家の辞官納地が決定された。討幕派は新政権から徳川を排除し、旧幕府勢力を徹底的に潰しにかかったのである。
さらに討幕派は、露骨な挑発行為に出る。西郷隆盛は江戸の薩摩浪士隊に、強盗・放火・殺人にまで至るテロ行為を指示。挑発に乗った江戸の治安維持部隊である新徴組が薩摩藩邸を焼き討ちにし、武力衝突は必至となった。年が明けて1868年1月、鳥羽・伏見で新政府軍と幕府軍が激突。大政奉還によって一時は避けられたかに見えた武力衝突は、結局、振り上げた拳を下ろせない討幕派によって、半ば強引に火蓋を切ることとなったのである。