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連載日本史51 摂関政治(3)

967年、村上天皇が崩御し、冷泉天皇が即位、藤原実頼が関白に就任した。本格的な摂関政治の始まりである。969年には左大臣の源高明が娘婿の天皇擁立を画策したという嫌疑で大宰府に左遷された。安和の変である。ここに藤原氏による他氏排斥はほぼ完了し、以後、摂政・関白は常置職となる。天皇が幼少だろうが成人だろうが、健康だろうが病弱だろうが、常に天皇代行が政治を仕切るという、どう考えても本末転倒なシステムなのだが、この体制は百年以上も続いた。もちろん、摂政・関白は藤原氏の独占であり、実頼以降16代連続で摂政・関白を輩出した藤原北家は摂関家とも別称された。

藤原氏略系図(nihonshi-yururi.comより)

権力の独占が完了すると、一族の間で内紛が起こるのは世の常である。藤原氏も例外ではなかった。有名なのは、兼通・兼家兄弟の確執である。病床にあった関白・兼通を見舞うこともなく、兄の死後の関白就任を天皇に願い出たエゴイスティックな弟・兼家に激怒した兼通は、関白の座を甥の頼忠に譲る。歴史物語の「大鏡」には、臨終の床にある兼通の屋敷の傍を平気で素通りして自らの昇進を願い出るために御所へ向かう兼家の無神経と、瀕死の病床にありながら最期の力を振り絞って参内して弟の昇進を妨害する兼通の執念が、鮮やかに描かれている。

次に有名なのは、兼家の息子である道隆・道長兄弟、そして道隆の息子である伊周(これちか)と道長、すなわち甥と叔父との争いである。自分の死後は息子の伊周に摂政・関白を譲るつもりでいた道隆は、自宅で行った弓の競射で伊周が道長に遅れをとったのが不満で延長戦を申し出る。道長に対して、伊周に勝ちを譲るように、暗に促したのである。反発した道長は延長戦で「自分の家から摂政・関白が出るのなら、この矢よ、当たれ」と宣言して、二本の矢を見事に的中させてしまう。臆した伊周は、とんでもない方向に矢を外してしまい、道隆の過保護な親心は結果的に息子に恥をかかせることになってしまった。この事件も、「大鏡」にリアルに描写されている。

藤原道長(「世界の歴史まっぷ」より)

道長と伊周のエピソードにも見られるように、権力闘争に勝利する人物の条件のひとつは、物事に動じない豪胆さであろう。無論、道長は単に粗野な人物ではなく、細やかな心遣いもできる懐の深さも兼ね備えていたようだ。道隆・道兼が相次いで死去し、道長・伊周のいずれを後継者にするのかを決める際には、道長の姉であり、一条天皇の母后であった詮子が、涙を流して天皇に道長の推挙を願い出たという逸話が残っている。

天皇・道長関係系図(trendogazolopzx.blogspot.comより)

995年、内覧の地位を得た道長は、娘の彰子を一条天皇の中宮とし、その間に生まれた後一条天皇の外祖父として、1016年、めでたく摂政に就任した。翌年、息子の頼通に摂政の地位を譲った道長は、三人の娘を次々と天皇の妃とし、盤石の地位を築く。道長の栄華を誇る歌が、彼の自作として、後世に伝えられている。
  この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば

道長・頼通親子の時代に、摂関政治は全盛期を迎えた。本末転倒のシステムが固定化し、政治の安定が訪れたのである。摂関政治形成の過程を見ると、結局、政治というものは結果オーライなのだなと実感させられる。無論、その矛盾は随所に歪みを生み、次代の変革への起爆剤となる。満月は翌日には欠け始めるものなのだ。




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