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オリエント・中東史㊻ ~アフガニスタン問題~

アフガニスタンでは1991年のソ連崩壊の影響を受け、その翌年には共産政権が倒れてゲリラ勢力による暫定政権が樹立され、国名もアフガニスタン・イスラム共和国に改められた。だが、ゲリラ勢力内での抗争は続き、首都カブールを中心に激しい内戦が繰り広げられた。1994年にはイスラム原理主義を掲げるタリバンが急速に台頭。96年にはカブールを攻略して実権を握り、極端なイスラム教スンニ派原理主義に基づく宗教国家建設を目指した。

タリバンの中心メンバーはパキスタンのアフガン難民キャンプに建設された神学校で過激な宗教教育を施されたパシュトゥーン人の若者たちであった。パキスタン政府は隣国のアフガニスタンに親パキスタン政権樹立を画策し、彼らに武器や資金を援助して故国に送り込んだのだ。いわばタリバンは内戦の鬼胎から生まれた過激派集団であったといえよう。後に米国同時テロを引き起こすことになるオサマ・ビン・ラディンもタリバンと連携して96年に国際テロ組織アルカイーダの拠点をアフガニスタンに築いた。98年にはアルカイーダによると思われるケニアとタンザニアの米国大使館爆破事件が発生。米国は報復措置としてアフガニスタンのテロ組織活動拠点にミサイルを撃ち込んだ。大国の都合で振り回されてきたアフガニスタンはじめ中東の紛争地域では、テロ組織を力で抑え込んでも、それに反発して新たな勢力が台頭するという悪循環が繰り返されている。そこには、もはや話し合いでは何も解決しないという虚無感と剥き出しの暴力性が蔓延しているようだ。

徹底した原理主義に基づいて一切の欧米文明を否定し、女性の就職や教育を禁止し、テレビ・ラジオ・映画などの娯楽も排し、服装や日常生活の隅々にまで厳格な制約を課すタリバンは、反対派を次々と処刑して恐怖政治を敷いた。2001年2月には貴重な文化遺産であるバーミヤンの石仏を偶像崇拝だとして破壊し、国際的な非難を浴びた。同年9月、米国で同時多発テロが起こると、米軍はアルカイーダの拠点破壊とビン・ラディンの殺害を目的としてアフガニスタンを攻撃。タリバン政権は崩壊し、山間部に撤退しながらも一定の勢力を保持した。タリバン撤退後は国連主導の暫定政府樹立への動きが進み、2002年にカルザイ大統領が選出されて暫定政府が発足したものの、かつてタリバンの対抗勢力であった旧北部同盟の軍閥や、パキスタンからの支援を後ろ盾にして山岳地帯を拠点に勢力回復を狙うタリバン、さらにシリアから流入したIS(イスラム国)の一派など、さまざまな勢力による抗争は各地で続いており、国際支援部隊(ISAF)が10年以上にわたって治安維持のために派遣され続け、米軍の駐留も20年近くに及んだ。

この間、隣国パキスタンでも北部を支配していたタリバーンによって、2012年、女子教育の必要性を訴えた当時14歳のマララ・ユスフザイ氏が狙撃され瀕死の重傷を負った事件もあった。幸い彼女は一命をとりとめ、国際的な活動を続け、2014年にはノーベル平和賞を受賞したが、パキスタンやアフガニスタンでの女子教育の機会保障への道は未だ遠い。また、2019年には、アフガニスタンに長年関わり、パキスタンのペシャワールを拠点に医療活動や難民支援や治水工事などに粉骨砕身してきた中村哲氏が襲撃され命を落とすという痛ましい事件も起こった。2020年にはアフガニスタン駐留の米軍およびNATO軍の順次撤退が合意をみたが、本格的な治安回復には程遠く、むしろ外国勢力の撤退によって内戦が再燃する可能性すらあるという。かつて大国の身勝手な思惑に翻弄され続けてきたアフガニスタンのトラウマ(精神的外傷)は、もはや自力では癒せない深さに達しているのかもしれない。

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