連載日本史163 開国(1)
1853年6月、四隻の軍艦が浦賀沖に現れた。米国の東インド艦隊司令長官ペリーの率いる「黒船」である。米国捕鯨船の寄港地確保と通商を望むペリーは、最新の蒸気機関を搭載した鉄甲軍艦を見せつけ、幕府に圧力をかけながら条約交渉を開始した。翌月にはロシア極東艦隊司令長官プチャーチンが長崎に来航。日本に開国を迫る欧米列強からの外圧は日に日に激しさを増していた。
幕府は老中阿部正弘を中心に挙国一致体制をとった。前水戸藩主徳川斉昭を幕政に招き、朝廷と連携し、諸大名や幕臣からも意見を聴いた。越前藩主の松平慶永、薩摩藩主の島津斉彬など、雄藩の大名たちにも幕政への参与を求め、勘定奉行の川路聖謨、外国奉行の永井尚之、長崎海軍伝習所の勝海舟、伊豆韮山(にらやま)代官の江川英龍らを次々と登用し、大砲製造のための韮山反射炉の築造、品川台場の建設、大船建造の解禁、長崎の海軍伝習所や江戸の講武所での軍事訓練の開始など、体制の整備を急いだ。江戸には洋学所が開かれ、後にそれが蕃書(ばんしょ)調所と改称され、東京大学の前身校のひとつとなった。
翌年、再び来航したペリーとの交渉の末、1854年3月、日米和親条約が締結された。下田・函館の開港、難破船乗組員の救助、燃料・食料の供給、領事駐在の認可などのほか、片務的最恵国待遇を容認した点において、後の通商条約ほどではないにせよ、これも不平等条約であったといえる。続いて英・露・蘭の三国とも同様の和親条約が結ばれ、日本は開国へと大きく舵を切ったのであった。
当時、清では太平天国の乱が続き清朝の弱体化は誰の目にも明らかだった。欧州ではクリミア戦争が起こり、英仏とロシアは対立関係にあった。さらに1856年には英仏と清の間でアロー戦争が起こり、国際情勢はますます流動化した。一方、日本国内では江戸を安政の大地震が襲い、病弱で跡継ぎのいない十三代将軍家定の後継者として一橋慶喜を推す一派と徳川慶福(よしとみ)を推す一派の対立も深まり、内憂外患の渦巻く中で、改革の中心を担っていた老中阿部正弘が若くして急死するという悲劇が起きた。おそらく相当ストレスを受けていたのだろう。初代米国中日総領事のハリスは、そんな幕府の足元を見透かすように、日本との通商条約の交渉を開始。老中堀田正睦(まさよし)は、条約に反対し攘夷を唱える朝廷との板挟みに苦慮しながらハリスとの交渉に当たった。そんな中、彦根藩主の井伊直弼が、非常時に設置される最高職の大老に就任する。難局を力で乗り切ろうとする独裁志向のリーダーの出現によって事態は急転直下の展開を見せ、時代は一気に沸騰していくのであった。