見出し画像

連載日本史73 鎌倉幕府(3)

伊豆修善寺に幽閉された二代将軍頼家は、まもなく北条氏の手によって暗殺された。次いで第三代将軍となったのは、頼家の弟である実朝である。実朝を擁立した祖父の北条時政は執権に就任した。しかし次第に実朝が意のままにならなくなると、時政は実朝暗殺を企て、逆に娘の政子と息子の義時によって追放される。続いて執権に就いた義時は、1213年に幕府創設以来の重鎮である和田義盛を滅ぼした後、政所・侍所別当を兼任し、完全に実権を掌握した。

源氏・北条氏略系図(manareki.comより)

実朝は次第に政治への情熱を失い、和歌の世界にのめりこむようになった。無理もない。兄を殺した祖父によって将軍に立てられ、その祖父が今度は自分を殺そうとして母と叔父に追放され、その叔父が権力闘争の末に実権を握ったわけで、一族の醜い内紛につくづく嫌気がさしたのだろう。大船を建造して宋への渡航を企てたり、京都の公家を通して官位の昇進をしつこく願い出たりと、常軌を逸した現実逃避的な行動が目立つようになった。

北条政子像(鎌倉・安養院)

1219年、実朝28歳の年に悲劇が起こる。頼家の遺児である公暁(くぎょう)が鶴岡八幡宮の境内で実朝を斬殺したのである。実朝を親の仇と逆恨みしての暗殺であった。公暁は北条氏の差し向けた討手に殺され、ここに源氏将軍家の血筋は絶えたのである。一族の殺し合いの中で息子や孫たちを次々と失った政子は、源氏の嫡流が絶えた後、弟の義時とともに幕府の中枢を掌握し、「尼将軍」と呼ばれることになる。

鎌倉・若宮大路(thegate12.comより)

鶴岡八幡宮の正面参道である若宮大路は、かつて政子が頼家を身ごもった際に、夫の頼朝が安産祈願のために造営してくれたものだという。息子たちが非業の死を遂げた後も、生き残って政務を担った彼女が、どのような気持ちでその道を歩いていたのか、今となっては知る術もないが、政子はそれでも夫の遺した鎌倉幕府を守り抜いていくのである。

太宰治の小説「右大臣実朝」において、主人公の実朝が次のように呟く場面がある。自分の死後を予見するかのように・・・。
 平家ハ、アカルイ。・・・アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。
 人モ家モ、暗イウチハ、マダ滅亡セヌ。




いいなと思ったら応援しよう!