連載日本史204 日露戦争(2)
日露戦争の天王山は、遼東半島の先端に位置する旅順要塞の攻略戦と、それに続く奉天会戦・日本海海戦であった。ロシア本土からバルチック艦隊が到着する前に旅順要塞を落とさなければ、日本の勝利は望めない。特に旅順港を一望に見下ろす203高地の争奪戦は激戦を極めた。日本側の司令官は乃木希典大将。日本軍はひたすら突撃を繰り返し、大きな犠牲を出しながらも、何とか旅順要塞を攻略することができた。
続いて行われた奉天会戦では犠牲者の数は更に膨らんだ。日本軍24万、ロシア軍36万、計60万もの軍勢が対峙した大激闘で、日本側7万、ロシア側9万もの死傷者が出た。日本側の指揮官は大山巌、参謀は児玉源太郎、ロシア側はクロパトキン。18日間に及ぶ戦闘の末にロシア軍主力が敗走し、日本軍が辛うじて勝利を収めた。この時点で日本陸軍の戦闘継続能力は限界に達しており、戦勝に沸き返る国内の民衆とは対照的に、現地参謀の児玉は早期講和を政府に申し入れた。海軍大臣の山本権兵衛も児玉に賛成し、米国大統領のセオドア=ルーズベルトを仲介者として、講和への模索が始まった。
一方、ロシアでは非武装のデモ隊に政府軍が発砲する「血の日曜日事件」が起こり、それを契機として全国で反政府運動が勃発した。この事件はロシア民衆の皇帝崇拝に冷や水を浴びせたもので、後年のロシア革命の遠因ともなっていく。ロシアも日本同様、戦争継続のために無理を重ねていたのだ。
1905年5月、半年をかけてヨーロッパから回航してきたバルチック艦隊が到着し、日本軍連合艦隊との間で日本海海戦が始まった。日本軍の司令官は東郷平八郎、参謀は秋山真之。出港に当たって、「本日、天気晴朗ナレドモ浪髙シ」との打電が大本営に送られた。海戦では、ロシア軍の意表を突く連合艦隊の敵前大回頭と、緒戦での集中砲火で日本軍が圧勝。ここを潮時とみた小村寿太郎外相は米国大統領ルーズベルトに正式に講和の仲介を要請。ロシアも米国からの講和勧告を受け入れた。
極東アジアの小国が欧米列強の一角である大国ロシアを討ち破ったという事実は、アジア諸国の独立・革命運動を鼓舞した。中国における孫文の革命運動、オスマン帝国での青年トルコ革命、イラン立憲革命、インドシナでの東遊運動、インド国民会議、オランダ領東インド(インドネシア)の独立運動など、日露戦争での日本の勝利に影響された運動は少なくない。しかし、当の日本は、自らが列強の仲間入りを果たしたことに狂喜し、率先して植民地獲得に乗り出し、次第にアジア諸国からの信望を失っていくのである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?