ローマ・イタリア史⑨ ~アウグストゥス~
前31年のアクティウムの海戦でアントニウスを破ったオクタビアヌスは、前29年に元老院からプリンケプス(元首)の称号を与えられ、名実ともにローマの最高権力者となった。彼は内政面では能力による変動も織り込んだ身分制の確立による社会秩序の安定に努め、対外面では属州を拡大しつつエジプトをはじめとした穀倉地帯からの食糧供給の増産を図った。ケルンやマインツ、アウクスブルグなど、彼の時代に建設された植民市で、今もその名を残す都市は数多い。また、首都ローマを中心に、大規模な土木・建築工事を実施し、インフラ整備にも尽力した。内乱の世紀に終止符を打ち、「ローマの平和(パクス・ロマーナ)」を実現した彼の政治手腕は市民から絶大な支持を受け、前27年に元老院は彼にアウグストゥス(尊厳者)の称号を贈った。ここにローマは、共和政の枠組みを残しながらも、実質的には帝政へと移行したのである。
皇帝となるべき能力と実績を十分に持ちながら、むしろそれゆえに危険人物とみなされて暗殺の憂き目に遭ったカエサルの例を若き日に目撃していたアウグストゥス(オクタビアヌス)は、慎重かつ細心に事を進めた。自らはあくまでも「共和政の擁護者」として振る舞い、元老院を尊重しながらも、結果的に皇帝への権力の集中が実現されるように心を砕いたのである。また、この頃になると、大きくなり過ぎたローマを統治していくためには、都市国家時代の共和政よりも、広域をカバーし、属州にある程度の自治を与えながらも、基本的には中央集権型の形態をとる帝政の方が適しているということを、元老院をはじめとする旧勢力も認識しつつあったということだろう。権力の移行は円滑に進み、アウグストゥスはローマ帝国初代皇帝として名を残すことになった。
アウグストゥスの名は、8月を意味する英語 August の中に痕跡をとどめている。7月を意味する July は、カエサル(ジュリアス=シーザー)の名にちなんだものである。ローマ帝国の存在がその後のヨーロッパ、ひいては世界全体に及ぼした影響の大きさを鑑みると、毎年巡ってくる暦の中に彼らの名が埋め込まれていることにも、十分な理由があるのだと思われるのである。