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「国語」と「日本語」 ~国語教育と日本語教育⑤~

一般にカリキュラムには二つの種類があるといわれる。一つは国語・社会・数学・理科など体系立てた教科・科目ごとに知識や技能を習得していく教科プログラム、もう一つは学習者の生活における具体的な経験や個々の興味・関心などを通じて結果的に必要な知識や技能の習得に至る経験カリキュラムである。前者は古くは中国の六芸(礼・楽・射・書・御・数)やヨーロッパの自由七科(文法・修辞・弁証・算術・幾何・天文・音楽)に遡る、長い歴史を持った伝統的な教育課程である。後者は20世紀米国で盛んとなったジョン・デューイらの経験主義教育の理論を背景としたもので、教授者中心の硬直化した学習に陥りやすい従来の教科カリキュラムの在り方を批判し、学習者中心の個別具体的な経験を軸としたフレキシブルな学習形態を提唱したものである。

もちろん両者の区別は絶対的・排他的なものではない。教科カリキュラムの中にも経験学習的要素は存在するし、経験カリキュラムもどこかの段階で習得した知識や技能の系統立てた再構成を迫られる局面があるだろう。いわば同じ食材のコース料理を、どの順序で、どういう味付けで食べるかというだけの違いではあるが、最後まで食べてもらいたいならば、味付けや盛り付けに最大限の配慮を払わねばならないのもまた然りなのである。

日本の英語教育のカリキュラムは学校教育をベースとしているため、やはり教科カリキュラム的要素が強い。しかし昨今では、そうした形で長年英語を学習してきてもコミュニケーションがとれない、つまり受験などに必要な知識は十分に蓄積されているのだがコミュニケーションツールとしての言語習得には失敗しているという問題点がしばしば指摘されるようになり、経験カリキュラム的な要素をもっと取り入れるべきだという声が強くなった。教科カリキュラム的要素の強いシラバスの代表は文型・構造シラバスであり、易から難へと系統的に並んだ教授項目を順序立てて教えていく学習体系は長らく日本の英語教育の中核を占めていたのだが、それが見直しを迫られつつあるのだ。

とはいえ、英語教育が学校教育の枠内にとどまる限り、教科カリキュラムがベースとなる点は変わらないだろう。ただ、そこに学習者を主体とした経験カリキュラム的要素を、これまで以上に加えていくという努力は必要だと思われる。文型・構造シラバスに比べ、やや経験主義的要素の強いシラバスとして、旅行や買い物など実際の言語使用場面を想定した場面シラバスや、依頼・謝罪・許可などの言語機能を中心とした機能シラバス、さらには「~ができる」という課題遂行能力を切り口として組み立てられたCan-doシラバスなどがある。大切なのは、それらの特性を十分理解した上で、学習者の状況に応じて、バランス良くそれらを組み合わせていくことだろう。

日本語教育についても同様のことが言える。英語教育に比べて学校教育という強力な枠組みの色合いが薄い分、日本語教育のカリキュラム・デザインやシラバス・デザインは比較的自由であると言えるが、それだけに現状の形が目前の学習者のニーズやレディネスに適したものなのかという検証が絶えず必要となる。教材についての知識も不可欠だ。日本語教育の分野で大きなシェアを誇る教科書「みんなの日本語」は文型・構造シラバスを基調としているが、他にも場面シラバスと機能シラバスの複合による教科書「Situational Functional Japanese(SFJ)」やCan-doシラバスに基づいた教科書「まるごと」などの多様な教材が存在する。特にCan-doシラバスは、世界の言語教育のスタンダードとなりつつあるCEFR(Common European Framework of Reference for Languages=ヨーロッパ言語共通参照枠)において提唱されており、その日本語教育版であるJF日本語教育スタンダードが国際協力基金によって作成されたこともあって、日本語教育でも大きな潮流になりつつある。

繰り返すようだが、カリキュラムやシラバスに絶対はない。無論、基本的な方針を立ててそれを維持する一貫性は全ての教育活動において大切なことだが、目前の学習者の状況に応じて多様な指導法を柔軟に展開できる引き出しの多さも併せて持ち合わせておきたいものである。

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