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ローマ・イタリア史⑭ ~西ローマ帝国の滅亡~
ローマ帝国が東西に分裂した4世紀から5世紀にかけてはヨーロッパにおいてゲルマン人を主とした民族大移動が起こった時期でもある。東から侵入してきたアジア系騎馬民族のフン族に押されて、多くのゲルマン民族が欧州各地を移動し、それぞれの地でゲルマン系国家を樹立した。アングロ=サクソン人はブリテン島、フランク人は南西フランス、西ゴート人はイベリア半島、東ゴート人はイタリア、ヴァンダル人は北アフリカで建国し、ヨーロッパは大移民時代を迎えたのである。
西ローマ帝国では軍事に優れたゲルマン人を傭兵として雇っていたが、彼らはあくまで非ローマ人であるとして、政治参加を認めずに冷遇した。それが彼らの反感を買い、西ローマ宮廷の弱体化も相まってクーデターが起こる。476年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルは皇帝ロムルスを追放して自らの王国を樹立。ここに東西分裂から1世紀を経ずして、西ローマ帝国はあっけなく滅亡したのであった。
オドアケルの王国は長続きせず、493年には東ゴート王国のテオドリック大王によって滅ぼされ、以後、イタリア半島は長い分裂の時代に入る。一方、コンスタンティノープルを都とした東ローマ帝国は、15世紀にオスマン帝国によって滅ぼされるまで、1000年にわたって命脈を保つことになる。この東西ローマ帝国の落差の原因は何なのか。
ひとつの理由として考えられるのは、移民への対応の差である。東ローマ帝国では、民族大移動に際して、流入する移民の中でも有能な人材にはローマ市民権を与え、官吏に登用するなどして活用を図った。彼らは生粋のローマ人や属州民に次いで、「第三のローマ人」と呼ばれたという。一方、西ローマ帝国は移民に対して排外的な姿勢で臨み、それが帝国の弱体化とクーデターにつながったのではないかということだ。もちろん他にもさまざまな原因があるだろうが、民族大移動という大きな時代の波を受け入れながら戦略的に門戸を開いたか、時代の変化を拒んで閉鎖的な姿勢に終始したか、そのスタンスの違いが東西ローマ帝国の明暗を分けたのではなかろうか。
民族移動もグローバリゼーションも、それ自体は善でも悪でもない。それは目前の現実であり、個人レベルでは、それを積極的に受け入れるか、あえてそれに背を向けるかは、各々の選択に委ねられるべきものだろう。しかし国家レベルで考えるならば、ただ拒み続けるだけでは西ローマ帝国と同じく衰亡の道を辿るのではないかと思われる。無制限に受け入れるのはかえって無責任だとも思うが、計画的に門戸を開いて自分たちと同じ市民権を持った存在として受け入れていくことは、現代の移民政策においても必要なことだと思うのだ。