連載中国史53 中華民国(3)
20世紀前半の中国情勢は混迷を極めたが、日本の対中国政策も同様に混乱に満ちたものだった。上海クーデターによる国共分裂と同年の1927年、日本は第一次大戦のドサクサで手に入れた山東省の旧ドイツ権益を確保と日本人居留民の保護を名目とした山東出兵を決行。翌年には済南で北伐途上の中国国民革命軍と軍事衝突し、日本軍が済南を完全占領した。翌年には撤兵したものの、中国の対日感情は更に悪化。一方、満州駐留の関東軍の一部将校は、蒋介石の北伐軍に追われた奉天軍閥のリーダー張作霖を列車ごと爆殺。混乱に拍車をかけた。
もともと張作霖は日本からの支援を受けており、日本の対中国政策にとって重要な位置を占めていたはずの人物である。それを軍の思い通りにならないからといって殺してしまうのは明らかに暴走であり、日本政府は首謀者たちに対して断固とした処置を取るべきであった。しかし、当時の内閣は事件の真相をうやむやにし、責任逃れに終始した。結果的にそれが更なる関東軍の暴走を呼び、外交努力よりも現地軍の軍事行動による既成事実が優先される風潮につながってゆくのである。
張作霖の死後、北伐は完了し、南京国民政府は正式に全国統一を宣言した。張作霖の息子の張学良は、亡父の遺した奉天軍閥を率いて蒋介石に下り、本拠地の満州で、かつての軍閥政府の国旗であった五色旗を国民政府の掲げる青天白日旗に替える「易幟」を行った。関東軍としては張作霖爆殺後の混乱に乗じた満州の実効支配をもくろんだであろうが、思い通りにはいかなかったわけだ。一方、統一を成し遂げた中華民国政府も、国民党対共産党という深刻な対立を国内に抱えていた。すなわち、1930年代の中国では、国民党政府と共産党と日本軍による、新たな三つ巴の対立構図が顕在化したのだ。
もともと関東軍は、日露戦争でロシアから得た満州での権益を守るために派遣された現地駐留軍である。それが自らの勢力拡大をもくろんで暴走した。「満蒙は日本の生命線」というスローガンが度々喧伝されたが、結局は国益や居留民の保護に名を借りた侵略行為にほかならなかった。中国の対日感情は急速に悪化し、それは後々、中国国内の勢力争いや政治工作にも利用されるようになる。自ら蒔いた種とはいえ、やるせない話である。