連載日本史185 殖産興業(2)
1873年、内務省が新設され、岩倉使節団の一員として欧米視察の旅から帰国したばかりの大久保利通が初代内務卿の地位に就くと、殖産興業の動きは更に加速化した。欧米の近代産業をまのあたりにし、日本でも産業革命を推進するためには石炭・鉄の増産と貿易の振興が不可欠だと実感した大久保は、三池炭鉱や釜石鉄山を中心とした石炭・鉄鉱石の採掘を推進した。また、農業の振興にも力を入れ、品種改良などによる生産性拡大などの活動を支援するとともに、肉食・牛乳飲用の習慣の広がりを受けて、牧畜業の拡大充実を図った。そのために重視されたのが、北海道の開拓である。
既に1869年には開拓使が設置され、蝦夷地は北海道と改称されていた。1874年には屯田兵制度が導入され、主に奥羽諸藩の士族から募集された屯田兵が現地に土着し、国境警備・開拓・治安維持に当たった。道内各所には多くの屯田兵村が作られた。これは戊辰戦争で敗北した東北諸藩の士族の失業対策も兼ねた施策であったと見ていい。道内には網走をはじめ五ヶ所の刑務所が設置され、本土から多くの囚人が送り込まれて、道路や鉄道の建設、石炭や硫黄の採掘などの囚人労働に従事した。北海道開拓のための重労働のかなりの部分は、囚人によって担われたのである。
アメリカからは大量の牛や緬羊が輸入され、多くの開拓牧場が作られた。札幌には農学校に加えて札幌麦酒(ビール)醸造所が開設され、日本のビール生産の先駆けとなった。一方、先住民であるアイヌは、開拓の進展によって生活の基盤を奪われていった。狩猟民族であり、土地所有の観念の薄いアイヌは、開拓による私有農地の拡大によって居住地を追われ、更に政府の極端な同化政策によって独自の風俗や習慣の廃止を強要され、伝統的な生活文化を維持できなくなったのだ。そういう意味では、アイヌは富国強兵・殖産興業政策の最大の犠牲者と言える。