連載日本史240 太平洋戦争(4)
戦時下の文化も軍国主義一色となっていった。思想統制と弾圧により、プロレタリア文学から転向を余儀なくされた中野重治や島木健作らの転向文学、戦争を主題とした火野葦平らの戦争文学、伝統芸術の復興を目指した亀井勝一郎ら日本浪漫派の活動など、いずれも時代を反映したものであったが、中国戦線での日本軍の残虐行為の実態や兵士の心理を描いた石川達三の戦争文学「生きてゐる兵隊」は発禁処分となり、一方で谷崎純一郎の「細雪」は戦争の臭いを感じさせない描写が軍部の怒りに触れて連載禁止となった。書いても発禁、書かなくても発禁である。息苦しい時代であった。
軍部は多くの画家を戦地に派遣して戦闘を描かせ国民の戦意高揚を図った。田河水泡の人気漫画「のらくろ」は主人公が犬の軍隊で失敗を重ねながら出世していく物語であった。「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」などをスローガンとして、国民精神総動員運動が盛り上がった。精神まで総動員されてはたまらないと思うのだが、多くの国民がこれに熱中し、戦争に協力しない人間は非国民だと罵る風潮が広まった。1940年に大政翼賛会の下部組織となった町内会・隣組は、配給や生活統制を担い、国民生活全般に相互監視の網を広げる役割を担った。やはり息苦しい時代である。
1943年11月、東條首相は占領各地の代表者を集めて大東亜会議を開き、戦争の大義名分を強調したが、現地の実態とはかけ離れたものだった。同じ月には米国大統領ルーズベルト・英国首相チャーチル・中国代表蒋介石によってカイロ会談が開かれ、対日戦争において日本が無条件降伏するまで戦争を継続するという方針が明確化されていた。同盟国であるイタリアは既に降伏し残るは日本とドイツだけになっていたのである。
1944年3月、太平洋戦争中で最も無謀だと言われたインパール作戦が決行された。これはビルマの日本軍が大河と山岳地帯を越えて400km以上に及ぶ距離を踏破し、インド北部の英国軍拠点のインパールを叩き、援蒋ルートを遮断するというもので、大本営では実現性を疑問視する声があったものの、現地の牟田口司令官の強い要望と組織内での人間関係への忖度によって、作戦実行が許可されてしまったのである。日本軍の意思決定における非合理かつ無責任な側面が如実に表れた決定であった。
結果的に日本軍は一人もインパールにたどり着けず三万人が命を落とした。前線からは作戦の変更・中止を求める声が上がっていたが、牟田口司令官は精神論で乗り切ろうとし、反対する将校たちを更迭した。また大本営は戦場の現実を顧みることなく、一度始めた作戦の継続に固執していた。失敗を認めたくなかったのだ。作戦中止の決断がずるずると引き延ばされていくうちに現地は雨期に入り、ようやく中止命令が下された時には前線の兵士には撤退に必要な食糧も残されていなかった。兵士たちは力尽きた味方の死体を食べて飢えをしのいだという。日本軍の撤退路には死体が山積し「白骨街道」と呼ばれた。
近年ベストセラーになった「失敗の本質」では、インパール作戦の最大の問題は人間関係や組織内の融和が優先されて組織の合理性が削がれた点にあると分析されている。これはインパール作戦に限ったことではないだろう。失敗を失敗として認めようとせず、組織内の融和を優先して非合理的な意思決定を積み重ねていくと、その先には白骨街道が待ち受けているのだ。