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ローマ・イタリア史⑥ ~第一回三頭政治~

内乱の一世紀において大きな対立軸となったのは、兵制改革に取り組んだマリウスに代表される平民派と元老院を中心とした古くからの名門貴族を核とする閥族派の争いであった。後者の代表格はスラである。前者も「平民派」と称しているものの内実は新興貴族や騎士階級などの富裕層集団であり、結局、両者の争いは階級闘争というよりは新旧支配者層の勢力争いであった。

当初はマリウス率いる平民派が優勢であったが、やがて閥族派が勢力を盛り返す。拮抗する勢力争いの中で、両者ともに民衆の支持を得ようとしてパンと見世物、すなわち食料と娯楽の提供を競った。ローマの版図拡大に伴って急増した奴隷たちの多くは、ラティフンディア(大土地所有経営)を支える労働力となったが、中には「見世物」となる奴隷たちもいた。いわゆる剣奴(グラディエーター)がそれである。そんな中、トラキア地方(ブルガリア南部)の出身で剣奴のひとりであったスパルタクスが、前73年に奴隷解放を求めてローマ史上最大といわれる奴隷反乱を起こした。反乱は二年に及び、権力闘争に明け暮れていた両派の貴族や騎士たちを震撼させた。乱を鎮圧した二人の将軍――閥族派のポンペイウスとクラッススは、それによって大きな力を得た。この頃になると、ローマの兵士たちの多くは、国の兵士というよりは、有力者たちの私兵集団の様相を呈していたのだ。

一方、マリウスの死後、平民派の中で台頭してきたのがユリウス=カエサル(ジュリアス=シーザー)である。ポンペイウスとクラッスス、そしてカエサルは、前60年に秘密裏の盟約を結び、両派の対立を収めて協力態勢をとった。いわゆる第一回三頭政治である。彼らはいずれも同盟時点では、単独で広大なローマを治めきれないといういう現実認識を持っていたが、一方で、少なくとも軍人であったポンペイウスとカエサルは、自己の勢力を伸ばして単独でローマ全域の支配者となろうという野心を持っていたようだ。当面はカエサルがガリア(フランス・ドイツ地域)、ポンペイウスがヒスパニア、クラッススがシリアへの遠征を担い、勢力均衡を保っていたのだが、クラッススのパルティア遠征途上での死によって残された二人の間に亀裂が入る。先にローマを押さえたポンペイウスは、カエサルのガリアからの帰還を阻もうとするが、彼は「賽は投げられた」とばかりにルビコン川渡河を強行し、ローマに向けて進軍した。首都を追われたポンペイウスは小アジアからエジプトへと逃れたが、その地で暗殺され、生き残ったカエサルが覇権を手中にしたのである。

各々が野心を隠したまま、当面の利益のために手を結ぶのは、政治の世界ではありがちなことだ。もともと信頼から結ばれた関係ではないため、ひとたびバランスが崩れればたちまち破局に向かうのも世の常である。ルビコンを渡る前のカエサルには、ガリアにとどまって当地の支配者となり、ポンペイウスと権力を二分するという選択肢もあったはずで、ポンペイウスもカエサルがあえてルビコンを渡って賭けに出るとは予想していなかったのかもしれない。だが、カエサルの野心は軍事的支配の枠を越えて、その先を見据えていた。クラッススやポンペイウスに見えていなかった景色が、彼には見えていたのだ。それはその後の彼の行動によって徐々に明らかになっていく。つまり、カエサルと他の二人の違いは、ローマの未来に対するビジョンを明確に持ち得ていたか否かの違いであったと言えよう。

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