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オリエント・中東史㊸ ~湾岸戦争~

1989年11月、東西ドイツを隔てていたベルリンの壁が崩壊した。それは第二次世界大戦終結から40年以上にわたって続いた東西冷戦の幕切れを示す象徴的な事件であった。冷戦の終結は米ソを中心とした資本主義圏と共産主義圏の2大陣営による積年の対立を解消したが、同時に世界のパワーバランスを不安定化させ、地域紛争の頻発を招くことになった。特に中東地域では、1980年から88年まで長期にわたって戦いながら決着がつかなかったイラン・イラク戦争の影響が色濃く残っており、油田の争奪や宗教的対立などの火種も抱えて、一触即発の状況にあった。

そもそも、イラン・イラク戦争が泥沼化したのは、周辺諸国や大国の思惑が複雑に絡み合ったからにほかならない。とりわけ米国は、イスラム革命で親米から反米へと傾いたイランへの警戒を強め、イラクに対して多大な支援を行った。敵の敵は味方だというわけだ。停戦後も強大な軍事力を維持したイラクは、戦争で生じた多額の債務の返済のため、豊富な油田を持つ隣国クウェートへの侵攻を企てた。つまり、湾岸戦争の遠因を作ったのは、米国自身でもあるのだ。

1990年8月、イラク軍はクウェートに侵攻し、全土を占領下に置いた。国連安全保障理事会は、即時撤退を求める決議を採択し、イラクに対する経済制裁を実施したが、イラクは撤退しなかった。米国はイラクの隣国であるサウジアラビアに軍を駐留させ、イラクに圧力をかけた。厳格なイスラム国家のサウジアラビアが異教徒である米軍の駐留を許したことは、中東のイスラム過激派を刺激し、やがてそれが同時多発テロの遠因となる。

国連安保理の再度の撤退要求にも従わなかったイラクに対して、米国を中心に、イギリス、フランス、カナダ、サウジアラビア、エジプト等の諸国から成る多国籍軍が組織された。1991年1月、多国籍軍が武力行使に踏み切り、湾岸危機は湾岸戦争となった。多国籍軍は1ヶ月以上にわたってイラクへの空爆を行った。イラクはイスラエルへのミサイル攻撃を行い、アラブ世界の支持を得ようともくろんだが成功せず、地上戦の末に多国籍軍がクウェートを解放し、3月になって停戦が成立した。

イラク軍は撤退したものの、その強大な軍事力は温存され、フセイン政権も存続した。戦争による犠牲者の数は正確にはわからないが、空爆による一般市民の犠牲者も含め、20,000人~35,000人とみる説が有力である。一方、多国籍軍側の死者数は事故や友軍砲火によるものも含めて500名程度であり、戦況がかなり一方的なものであったことを物語っていると言える。停戦後の国連決議に基づき、イラクはクウェートへの巨額の賠償を求められた。この賠償金は戦後30年以上かけてようやく完済されたという。

湾岸戦争の特徴のひとつは、メディアが戦争に及ぼした多大な影響であると言えるだろう。ベトナム戦争では戦場の映像の生々しい流出が反戦運動を招いたという教訓から、湾岸戦争では米国政府は戦場での取材を制限し、映像も米軍側の視点に同化するようなものばかりが放映された。さらに、広告代理店を通じた積極的な情報操作さえ行われた。イラクのクウェート侵攻から2ヶ月後、クウェートから脱出してきたという15才の少女が、米国の議会でイラク軍の残虐行為についての証言を行った。イラク兵たちがクウェートの病院で赤ん坊の保育器を奪い、22名を死に至らしめたというのである。この証言を契機に米国世論は一気に武力行使支持へと傾いた。しかし、湾岸戦争終結後、この証言は全くの嘘で、証言を行った少女は在米クウェート大使の一人娘であって、米国育ちでクウェートに行ったことすらないということが発覚したのである。

無論、イラクのクウェート侵攻は許されざる暴挙であり、国連決議を無視して占領を続けたことが多国籍軍の武力介入を招いたことは確かである。しかし、虚偽の証言を捏造までして敵国への反感を煽り、世論を操作して戦争へ誘導しようとするのは、常軌を逸した狂気であると言っても過言ではない。冷戦の終結から時を置かずに行われた湾岸戦争は、戦争の狂気が未だに世界を覆っており、平和な世界の訪れは程遠いという厳しい現実を、人々の眼前に突きつけて見せたのである。

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