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連載日本史82 鎌倉時代の産業と生活(3)
鎌倉時代に支配階級となった武士たちは、普段はどのような生活をしていたのだろう。 武士はもともとは貴族に仕えた軍事の専門家だが、いつも戦闘があるわけではない。平時には農村に常駐し、自らの所領を守るとともに開発領主として開墾や治水を仕切り、佃(つくだ)や門田(かどた)などの直営地を統括したり、地頭として国衙や荘園領主への貢納や番役を請け負ったりした。武士の館は、村の中でも一段高い土地に置かれることが多く、そこから武家の惣領を指して「お館(やかた)様」と呼ぶならわしも生まれた。つまり武士は、軍人と土地管理者の両側面を持っていたわけである。
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武士の道徳は「兵(つわもの)の道」「弓馬の道」と呼ばれ、質実剛健を旨とはしたものの、当然ながら強欲な武士も多く、過酷な年貢の取り立てによって農民から訴えられたり、年貢未納で荘園領主から訴えられたりと、上から見ても下から見ても迷惑な人々も少なからずいたようである。荘園領主の中には、年貢納入の確約と引き換えに荘園の事実上の支配権を地頭に請け負わせる地頭請所(うけしょ)や、荘園の相当部分を地頭に分与するかわりに互いの領分には関与しないとする下地中分(したじちゅうぶん)などの方法をとる者もいた。なにしろ武力を持っているだけに始末が悪い。「泣く子と地頭には勝てぬ」という言葉は、当時の武士たちの多くが、周囲から迷惑な存在と見られていたことを物語るものだと言えよう。
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とはいえ、武士の立場から見れば、いざという時に体を張り、命を懸けて戦うのは自分たちなのだから、それぐらいの迷惑は大目に見てほしいというところだろうか。有事に備えて武士たちは日頃の鍛錬を怠らなかった。疾走する馬上から鏑矢(かぶらや)で的を射る流鏑馬(やぶさめ)や笠懸(かさがけ)、獲物に見立てた犬を追い詰める犬追物(いぬおうもの)、広野での集団狩猟である巻狩(まきがり)など、個々の戦闘技能や集団での戦闘技術を磨くための訓練が頻繁に行われた。たとえ平時でも、心は常在戦場。死を恐れぬ「一所懸命」の覚悟が、武士を支配階級に押し上げた原動力だったのかもしれない。
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一方、武士に主導権を奪われた貴族だが、完全に没落したわけではなかった。武家の勢力伸長に伴い、かなりの縮小を余儀なくされたとはいえ、荘園領主としての一定の経済力は保持していたし、寺社との結びつきによる宗教的権威も侮れなかった。特に皇室と良好な関係を保つのは幕府にとっても重要なポイントであり、後嵯峨上皇の皇子を皇族将軍として迎え入れるなど、北条氏も朝廷対策には余念がなかった。
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政治においては武士に実権を譲らざるを得なかった貴族たちは、文化の世界に自らの存在意義を求めた。特に伝統への造詣がものをいう和歌や有職故実(ゆうそくこじつ)の世界は、武士には及びもつかない貴族たちの独壇場であった。新古今和歌集や百人一首の選者として有名な藤原定家は、「紅旗征戎(こうきせいじゅう)、我が事にあらず」という言葉を残している。政治や戦争は自分の仕事ではない、文化の世界を極めることこそが貴族の存在意義なのだという宣言である。若干の負け惜しみが含まれているような感もあるが、斜陽に向かって立つ貴族階級のひとりとしての衿持を示した名言であると言えよう。