インドシナ半島史㉑ ~ビルマの軍政~
フランスからの独立にあたり、米国の介入もあって、長期の内戦に陥ったベトナム・カンボジア・ラオスの三国に対して、イギリスの植民地であったビルマは比較的円滑に独立を果たしたものの、独立の功労者であるアウンサン将軍が暗殺されるなど、その政情は不安定であった。独立まもないビルマ連邦は英国に倣って議会制民主主義の国としてスタートしたのだが、少数民族の不満や乱立する政治勢力の対立などから内乱が絶えなかった。言論によって合意を得て物事を進めていくという民主主義の基礎が十分に確立していなかったのだ。
異なる意見を尊重するという民主主義の基盤が成熟せず、言論の場が十分に機能しない国では、混乱を抑える強制力を持った勢力、すなわち軍部の存在感が強くなる。ビルマも例外ではなかった。1962年、軍によるクーデターでウー・ヌ首相が退陣、国軍のネウィン将軍が実権を握って軍事政権を樹立した。議会制民主主義は否定され、政党はビルマ社会主義計画党(BSPP)のみとなり、政府の要職は全て軍関係者が占めるところとなった。1974年以降、国号はビルマ連邦社会主義共和国と改められ、ビルマ式社会主義の名の下で経済・教育のあらゆる分野が国営化され、国家への奉仕が強要された。社会主義の名を冠した、事実上の軍部独裁体制であった。
軍事政権下でビルマ経済は行き詰まり貧困化が進んだが異論は封殺された。80年代後半に入って民主化運動が活発になり、ネウィン将軍は退陣し、BSPPも解散に追い込まれたが、1988年の大規模な民主化デモに対して国軍は発砲して弾圧し、ソオマウン大将を議長とする国家法秩序回復協議会(SLORC)が権力を掌握した。独裁色を更に強めた軍事政権は、翌年には国の英語名称をビルマからミャンマーに改め、首都の呼称もラングーンからヤンゴンに変更した。この国の支配者は軍なのだというメッセージを、名称変更によって内外に印象づけようとしたのであろう。時を同じくして、民主化運動のリーダーであり、故アウンサン将軍の娘として運動の象徴的存在でもあったアウンサン・スーチー女史も外出を禁じられ、自宅軟禁下に置かれた。その後、20年にも及ぶ軟禁生活の始まりであった。
先述したように、民主主義の基盤が未熟な社会では、一時的に安定をもたらす力を持った勢力が必要になることもある。しかしビルマ(ミャンマー)の場合、その期間が長すぎた。民主化運動への弾圧とアウンサン女史の軟禁は国際的な批判を呼び、経済制裁が課されてミャンマーは国際的に孤立した。結果としてますます経済は低迷し、国民は閉塞化した状況下で、言論の自由のない生活を長期にわたって強いられることになった。ミャンマーの失敗は権力の移行の難しさを象徴しているようでもある。