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インドシナ半島史⑤ ~パガン朝~

中国・雲南地方の南詔国に居住していたシナ・チベット語族のビルマ人が、11世紀に南下してイラワディ川流域へと勢力を広め、先住のピュー人やモン人を征服しながら、文字や上座部仏教や灌漑農業技術を取り入れ、1044年にビルマ最初の統一王朝であるパガン朝を建設した。首都パガンには多くのパゴダ(仏塔)が建てられ、歴代の王たちも仏教に深く帰依し、仏教文化が開花した。13世紀にこの地を訪れたマルコ・ポーロの「東方見聞録」には、建寺王朝とも呼ばれたパガン朝の仏教建築群の豪華さが讃えられている。

だが過ぎたるは及ばざるがごとし。豪壮な仏教建築は国家の財政難を呼び、国力は次第に低下した。そこへ13世紀のモンゴル軍による侵攻が起こったのである。雲南を支配下に置いた元軍は、1287年に首都を占領し、パガンを元の従属国とした。以後、16世紀にトゥングー朝がビルマ地方の再統一を成し遂げるまで、この地にはイラワディ川下流域のモン人によるペグー朝や、上中流域のビルマ人によるアヴァ朝をはじめ、中小の諸勢力による分裂時代を迎えるのである。

古代から中世にかけての王朝の興亡には、宗教が大きく関わっているケースが少なくない。パガン朝衰退の要因のひとつに、仏教への過度な傾倒があったのは間違いないだろう。宗教は国家運営の求心力ともなり得るが、匙加減を間違えば国を滅ぼす劇薬でもある。仏寺成って国滅ぶ。パガン朝末期に民衆から揶揄された王朝の姿は、今もミャンマー各地に林立する多くのパゴダからおぼろげに窺い知ることができるが、その残像はどことなく哀しげでもある。

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