バルカン半島史⑩ ~ギリシャ哲学1~
ヨーロッパ思想の源流といわれるギリシャ哲学は、イオニアの自然哲学から始まった。ギリシャの植民市として発展したイオニア地方は交易の中心地として栄え、オリエントとギリシャ世界を結ぶ位置にあって知識の交流も盛んであった。そうした背景から、神話や宗教や道徳にとらわれない客観的な自然現象の観察を通して物事の根源(アルケー)を探究しようとする機運が高まったのだ。
万物の根源は水であると説いたタレスをはじめ、数を万物の根源としたピタゴラス、空気が根源だとしたアナクシメネス、万物流転を説いたヘラクレイトス、地・水・火・気の四元素を提唱したエンペドクレス、原子の存在を想定したデモクリトスなど、世界の成り立ちを考察した彼らの自然哲学は、近代科学を経て現代の物質論にまで繋がる知的探究であった。それらはギリシャ本土において自然から人間へと関心の対象を移し、民主政の発展期にあったアテネで、人間とは何か、人はどう生きるべきかという、人生の探究へと深化していくのである。
アテネを中心とした民主政ポリスで頭角を現したのは、ソフィストと呼ばれる弁論家たちである。議論と多数決で政策を決する民主政の下で活躍した彼らの理論は哲学というよりは論理学に近く、いかに相手を説得するかという点に重きを置いていたようだ。ソフィストの代表格であるプロタゴラスは、「人間は万物の尺度である」という有名な言葉を残している。これは自然哲学から一定の距離を置いた人間中心主義の宣言であると同時に、絶対的な真理の存在を否定した相対主義の思考を示したものであるとも言える。
そうしたソフィストの相対主義を批判し、徹底的な対話を通して絶対的な真理の追究を目指したのがソクラテスであった。「汝自身を知れ」という格言を掲げたデルフィの神殿において「ソクラテスこそが第一の賢者だ」との神託を受けた彼は驚き、アテネのアゴラ(広場)で当時一流とされた知識人たちと次々に対話を繰り広げる。思考の根源に迫る質問の応酬を繰り返す中でわかったのは、彼ら知識人が、自分たちにはまだまだわからないことがあるにも関わらず、自分たちは十分に知っていると錯覚しているということであった。もちろんソクラテスも彼ら同様にわからないことは無数にあるが、少なくとも自分が無知であるということは自覚している。この一点において、すなわち「世界について、人間について、自分が十分にわかってはいない、ということを自覚している」という「無知の自覚」の有無において、彼らよりもソクラテスの方が賢者であるとわかったのである。
ソクラテスの活動は人知の在り方について根源的な思索を促すものであり、自らの無知を自覚した上で、世界と自己について謙虚に問い続けることの大切さを説くものであったが、それゆえに為政者たちからは危険人物とみなされ、前399年に民衆裁判にかけられ、若者を惑わしてポリスの危機を招いた罪で死刑宣告を受けた。脱獄の機会もあったが、彼は「悪法も法なり」との言葉を遺し、自ら毒杯を飲み干したという。彼の死もまた、「法とは何か」「国家とは何か」という根源的な問いを、同時代のみならず、時代を超えて人々に投げかけているようだ。
ソクラテスの死はペルシア戦争終結後のポリス衰退の時期と重なっている。ギリシャ衰退の要因は政治的・外交的な失策だけでなく、こうした文化面での不寛容化にもあったのでないかと思えてくる。だが、真理の探究を真剣に欲する人々にとっては、ソクラテスが示した哲学の光は道標とするにふさわしいものであった。哲学史においてソクラテス以前とソクラテス後で時代が画されるほどに、彼の志を継いだ知の探究へのあくなき挑戦が、プラトンとアリストテレスというギリシャ哲学の巨人たちによって継承されていくのである。