連載日本史③ 縄文文化
縄文人と弥生人の遭遇について物語る前に、もう少し縄文文化について考察してみたい。論点は二つ。ひとつは縄文土器のあのド派手な装飾はなぜ生まれたのかという疑問であり、もうひとつはあの宇宙人的なスタイルの土偶は何のために存在したのかという問いである。
一万年近く続いた縄文時代は土器の形態によって大きく六期に区分される。草創期から早期・前期に至る前半五千年間の土器を見ると、縄目文様は細かく施されているものの、いずれも平面的である。それが中期になると一気に立体化する。よく縄文土器の代表的存在として目にする火炎土器の写真は中期のものである。装飾だけでなく器の種類も多様化した。機能的な進化の側面も一部にはあるのだが、多くの装飾や器形は、今の我々から見れば、「いったい何のために?」と首をひねらざるをえないような代物ばかりだ。もちろん、それだけの複雑な装飾や器形を作り出すのは簡単ではない。縄文人はよっぽどの暇人だったのであろうか?
そもそも土器を煮炊きや保存のための器としてのみ見る捉え方自体が、現代という時代のバイアスのかかった、偏った見方なのではないか。ここはひとつ、縄文人の気持ちになって考えてみよう。縄文時代の土器は、調理や保存のためだけでなく、もっと多様な機能を果たしていたのではないか。その機能は、時代を下るにつれて、他のものに受け継がれ、それにつれて土器は調理や保存の機能に特化されるようになり、派手な装飾も必要とされなくなっていったのではないか。だとすれば、現代にあって縄文時代にないものをリストアップしていけば、当時の土器が果たしていた機能が予測できるはずである。現代にあって縄文時代にないもの。――いくつか候補は考えられるが可能性のひとつとして「文字」が挙げられる。すなわち、縄文土器は、無文字文化におけるメッセージの記録伝達の手段だったのではないかという仮説である。
古代インカ文明にはキープ(結縄)という情報伝達の手段があったという。文字を持たなかったインカ帝国では、何本かの紐の結び目を組み合わせることで、かなり複雑なメッセージの伝達を可能としていたようだ。縄文土器の縄目文様も、それに近いものだったのではあるまいか。そう考えると、集落が大きくなり、社会が複雑化した中期・後期に至って、土器の装飾や器形が複雑化したことの説明も、ある程度はつくような気がするのである。
大ヒットした映画「君の名は」の中で、主人公の三葉のおばあちゃんが組紐を編みながら呟く。「組紐は神様の技、時間の流れそのもの」「縒り集まってかたちを作り、捻れて、絡まって、時には戻って、途切れて、また繋がり……」「それがむすび、それが時間」――「組紐」を「縄目文様」に読み替えれば、そのまま通じそうな台詞である。 縄文土器の縄目模様は、アートであると同時に何らかのメッセージを示すものであったのではなかろうか。
土偶には、さらに強いメッセージ性が感じられる。土偶も縄文土器と同様、前期にはシンプルな形のものが多いが、中期・後期・晩期になるに従って形態が複雑化していく。ただし、いずれの期にも共通する要素がある。それは「母性」である。程度の差こそあれ、土偶には乳房や腰など、女性の身体的特徴を誇張したと思われるものが多い。また、縄文人の風習として広く分布していたと思われる「屈葬」の習慣には、「死んで母親の胎内に戻る」という意味がこめられていたのではないかという説もあるそうだ。生殖と死、その間を結ぶ時間の流れ。文字を持たない古代縄文文化は、まさに文字を持たないがゆえに、遺されたモノを介して、より豊かなイメージを後世に伝えてくれているような気がするのだ。
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