連載日本史168 幕末(3)
長州の高杉晋作が創設した奇兵隊は、身分を問わず募集した志願兵によって構成される、江戸時代の身分秩序の常識から大きく逸脱した軍隊であった。かつて幕府使節団の一員として上海を訪れたことのある高杉は、中国に駐屯する欧米列強の軍隊を見て驚き、西洋の軍事力を徹底的に研究したという。彼がたどりついた結論は、列強の軍事力は、近代科学技術による兵器装備の充実だけではなく、「国民」の軍隊の存在によって支えられているというものだった。すなわち、旧来のままの身分秩序を温存した封建社会体制では、いくら近代的装備を整えても、欧米の軍事力と互角に対峙することはできないということである。
十九世紀初頭、ナポレオン率いるフランス軍と戦ったプロイセン軍の参謀クラウゼビッツは、フランス軍の強さの一因は革命を通じて培われた国民意識の強さにあると看破している。それまでの戦争は王族や職能軍人など、特定の階級によって担われるものだった。大多数の平民にとっては、戦争はお上が勝手にやるものであり、戦場に駆り出されたとしても、軍隊への帰属意識は低かった。しかしフランス軍は違った。流血の革命をくぐりぬけて自分たちの国を創り上げてきたという自負を持つ仏軍の兵士たちは、自分たちの軍隊に強い帰属意識を持ち、命をかけて戦った。市民社会の成立が、国家間の戦争を全国民のものと捉える意識を生み出し、戦争へのモチベーションを飛躍的に高めたのだ。
高杉がクラウゼビッツの「戦争論」を読んでいたかどうかは知らない。だが奇兵隊の創設は明らかに「国民の軍隊」の発想につながるものだ。池田屋の変で辛うじて難を逃れた桂小五郎(木戸孝允)や高杉ら長州の若き指導者たちは、社会体制の変革なくして日本が欧米列強と対等にわたりあうことはできないと痛感し、藩論を一気に倒幕へと転回させたのであった。
一方、後に倒幕のもう一方の主力となる薩摩藩は、1864年の第一次長州征伐の時点では、まだ幕府側に与している。この時点での薩摩藩の立場は、公武合体による政治改革の推進であり、倒幕ではなかった。しかし、薩摩藩の中にも、日本の近代化のためには幕府を倒して新たな体制を創出しなければならないと考える者が増えつつあった。その代表格が家老の小松帯刀、そして西郷隆盛と大久保利通である。