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連載日本史193 自由民権運動(3)

政権を追われた大隈重信は、1882年に犬養毅・尾崎行雄・矢野龍渓らとともに立憲改進党を立ち上げた。これは英国流の漸進的立憲主義を基本方針とし君民共治・二院制・制限選挙を政策に掲げたもので、知識人や新興の産業資本家たちを主な支持層としていた。同年には福地源一郎らによって、国粋主義・主権在君を掲げる立憲帝政党も旗揚げされた。前年には既に板垣退助・後藤象二郎らが、フランス流の急進的民約憲法論と主権在民・一院制・普通選挙を主張し、士族や豪農や商業資本家たちを支持層とする自由党を立ち上げており、十年後の国会開設に向けての議論が盛り上がりつつあった。

政党結成の動き(歴史総合.comより)

しかしながら自由民権運動の広がりは、政府の更なる弾圧に直面するとともに、運動そのものの変質をもたらすことにもなった。1882年には板垣が岐阜で暴漢に襲われて負傷する事件が起き、福島では県令の道路開削と自由党弾圧に対して、河野広中らの自由党員・農民が正面衝突し、多数の検挙者が出た。政府は板垣・後藤の西欧外遊を援助して懐柔するとともに、民権運動の分断を図った。1883年から1885年にかけて各地で民権運動の激化事件が続発した。1884年には埼玉・秩父の農民が困民党を組織し、自由党左派の指導で武装蜂起して鎮圧されるという秩父事件が勃発。他にも長野・新潟・茨城・静岡・名古屋・大阪などで、自由党急進派による政府打倒計画や要人暗殺計画が次々と露見し、政府は更に強硬に運動への弾圧を進めた。自由党は解党し、立憲改進党からは創設者の大隈が離党するなど、民権運動は受難と内部分裂の時期を迎えたのだ。

民権運動の激化(「世界の歴史まっぷ」より)

1886年、分裂状態の民権運動の再結集を求めて旧自由党の星亨や後藤象二郎らが大同団結運動を始めた。翌年にはそれが言論集会の自由・地租の軽減・外交政策の転換の三点に主張を絞り込んだ三大事件建白運動へと発展した。政府は保安条例を発して首都中心部からの民権派の退去を命じる一方で大隈を外相、後藤を逓信相に任命するなど、またも弾圧と懐柔を繰り返した。

政府の弾圧と運動の過激化は、負のスパイラルである。弾圧が強まれば運動は過激化し、過激化が強まれば更に弾圧が増す。それは双方に不幸な結果をもたらす。各地で連続的に起こった民権運動の過激化事件の中には、極端なテロリズムに堕したものも少なくないが、政府権力による弾圧が過激化を促したという側面も見逃せないだろう。自由民権運動の歴史に現れる抑圧とテロの負のスパイラルは、今もなお世界中で問われ続けている難問なのだ。

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