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バルカン半島史

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「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島の歴史をまとめています
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記事一覧

バルカン半島史㉚<最終回> ~21世紀のバルカン半島~

  2004年、スロヴェニア・ルーマニア・ブルガリアが、他の東欧諸国とともにEU(欧州連合)に…

水埜正彦
6か月前
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バルカン半島史㉙ ~ユーゴスラビア紛争~

自主管理社会主義と呼ばれた独自路線をとり、他の東欧諸国よりも相対的に豊かであったユーゴス…

水埜正彦
6か月前
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バルカン半島史㉘ ~東欧革命~

1989年のベルリンの壁崩壊に象徴される社会主義陣営解体の波はバルカン諸国にも及んだ。親ソ路…

水埜正彦
6か月前
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バルカン半島史㉗ ~冷戦下のバルカン半島~

戦後のバルカン半島は、東西冷戦の影響を強く受けることとなった。敗戦国となったルーマニアと…

水埜正彦
6か月前
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バルカン半島史㉖ ~第二次世界大戦~

1929年の米国株式市場の大暴落に端を発した世界恐慌はファシズムの呼び水となった。イタリアで…

水埜正彦
6か月前
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バルカン半島史㉕ ~大戦間のバルカン半島~

第一次世界大戦直後の1918年末、バルカン半島で南スラブ系のセルビア人、クロアチア人、スロヴ…

水埜正彦
6か月前
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バルカン半島史㉔ ~第一次世界大戦~

1914年7月、ボスニアの首都サラィエヴォで起こったオーストリア皇太子夫妻暗殺事件は緊迫した国際情勢に火をつけた。まずオーストリアがセルビアに宣戦布告。ロシアはセルビアを支持。オーストリアと同盟関係にあったドイツはロシアに宣戦。ロシアと露仏協商を結んでいたフランスはロシア支持に回り、フランスと開戦したドイツは中立国のベルギーにも侵攻。それに対して露仏と協商関係にあった英国がドイツに宣戦し、戦火は瞬く間に欧州全域に広がった。勢力均衡を保って戦争を回避するはずの同盟・協商ネットワ

バルカン半島史㉓ ~バルカン戦争~

19世紀末、ビスマルクの仕組んだベルリン条約による勢力均衡の国際情勢下で各国は潜在的な不満…

水埜正彦
6か月前
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バルカン半島史㉒ ~露土戦争~

クリミア戦争の敗北によって一度は挫折したものの、ロシアの南下への執着はやまなかった。冬に…

水埜正彦
6か月前
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バルカン半島史㉑ ~クリミア戦争~

オスマン帝国の弱体化に便乗して、ロシアは従来からの南下政策を一層強く推し進めた。それは東…

水埜正彦
6か月前
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バルカン半島史⑳ ~オスマン帝国の衰退~

15世紀から16世紀にかけて隆盛を誇ったオスマン帝国の支配も、17世紀に入って次第に翳りを見せ…

水埜正彦
6か月前
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バルカン半島史⑲ ~オスマン帝国の隆盛~

16世紀初頭、セリム1世の時代にオスマン帝国は勢力を拡大した。1514年にはイランから侵攻して…

水埜正彦
6か月前
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バルカン半島史⑱ ~オスマン帝国のバルカン支配~

13世紀末から14世紀初頭にかけてアナトリア(小アジア)に興ったトルコ系イスラム勢力のオスマ…

水埜正彦
6か月前
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バルカン半島史⑰ ~キリスト教会の東西分裂と十字軍~

西暦800年、ゲルマン系の新興国家として西ヨーロッパで最大の版図を持っていたフランク王国の国王カールに対して、ローマ教皇レオ3世が皇帝の冠を授けるという事件が起こった。これは聖像禁止令以来の東西教会対立を背景としたもので、ビザンツ皇帝と一体化したコンスタンティノープル教会(東方正教会)に対して、西は西で独自の皇帝を立てることで、ローマ・カトリック教会の地位を確立させようとする狙いがあったと思われる。力はあっても権威のない新興国のフランク王国と、権威はあっても力のないローマ教会