詩の座
ぼくは、「詩の座」という星座を、夢想する。
星と星とを結んだ星座のように、詩と詩とを結んでできあがる詩集は、あるいは「詩の座」と呼べるかもしれない。
でも、ぼくの言う「詩の座」は、星たちの座す場と言うほうが、相応しいだろうと思う。
ぼくは、漢字のつくり通り、詩とは、「言葉の寺」「言の寺」だと思っている。
寺では、帽子を取り、靴を脱ぎ、こうべを垂れ、膝をつき、手を合わせる。異教であっても、無信心であっても、特に祈願がなくても、ひとは、自ずと、そうする。
御堂に一歩踏み入れば、きみは、おのれの名さえ降ろすことができる。重荷か鎧かを解くように。そして、神仏の前に、無心で佇む、ただ一人の者になる。それは、何人も同じくだ。皆、ひとしく、かけがえのない者になる。いや、「なる」というよりは、そう「在る」ことに立ち戻らせてくれるのが、寺なのだ。
ぼくには、詩そのものが、そうした、小さな一つの御堂――厨子のような――であると思えてならない。
詩が集い憩う「詩の座」――詩の座もまた一つの御堂であり、聖域なのだ――に、きみは安堵するだろう。たましいへの、純粋な敬意と、素直な信頼があるからだ。
ぼくは、初めに、詩の座は星座だ、と言った。星たちの座す場だと。
英語のAstralは「星のような」という意味だが、「たましい」というような意味もある。だから、ぼくの夢想のなかでは、詩と星とたましいが、分かちがたく結びついている。
詩の座は、誰の胸の真ん中にもある。もちろん、きみにも。ひととき、ともに、夢をみてほしいんだ。
きみは、ぼくの星である。
すべての星が、自ら光る恒星ではないことは、百も承知だ。いわゆる「スター」でなくていい。
でも、ぼくは、きみに気高くいてほしい。きみのたましいを、きみにこそ、信じてほしい。
きみのたましいの深みは、遠い星の高みだ。そう容易くは、見つからない。届かない。掴むこともできない。
上手く生きられなくていい。ただ、星であるたましいを、生かしてはくれないか。
詩だって上手く書けなくていい。詩はきみのなかにあり、きみは詩を生きている。