ういからむいへ

「りーん」
澄んで、通る音がした。
わたしには「りーん」と聞こえた。
あるいは、「チーン」と聞こえる音なのかもしれない。

「りんちゃん」
今度は声がした。わたしの名を呼ぶ声。初めて聴く声。低く抑えた、おじさんのダミ声。

わたしは、半畳のタバコ屋の天井裏から静かに降りて、おじさんの前に姿を現した。

おじさんは、濃茶のニット帽に、深い皺の刻まれた日焼け顔、ごま塩の無精髭、軍手をつけた大きな手、グレーの作業服の上に、紺色の上着、靴は泥にまみれた黒のゴム長。
着古した服と、酷使してきた体、という出で立ちだった。

「やぁ、りんちゃんだね。おじさんが誰だかわかる?」
頷く。
本当に、アサヒにそっくりだった。
アサヒが歳をとったら、この顔だろうという顔だった。

アサヒの言う通りだった。アサヒは言っていたのだ。
「おれには親父がいる。おれと同じ顔をしているから、すぐわかる。何かあったら頼れ」と。

(似た顔というだけで、どこをどう探せばいいのか)と思っていたけれど、向こうから来た。

「せがれが世話になったね」
首を振った。
アサヒに世話になったのは、わたしだ。
タバコ屋の上だって、アサヒたちがあてがってくれたのだ。

「タバコ屋の婆さんは耳が悪いから、気づかない。気づいたとしても、おまえなら、でかいネズミか、仔猫くらいにしか思われないだろう。ただ、音と埃は立てるな。それが、住まわせてもらう礼儀だ」
それは、リュウか、リョウに、きつく言われた。

アサヒと一緒にいた彼らは、瓜二つの双子だった。
どちらがリュウで、どちらがリョウか、わからなかった。

通称〈とおりゃんせ〉の裏通りで、わたしたちは出会った。
〈とおりゃんせ〉は、あらゆる暴力と欲に満ちた暗渠のような通りだ。
が、金も落ちていた。
暗渠とはいえ、水は流れる。金も流れる。

大金には興味がなかったが、生きていくための小銭は必要で、金のにおいのするほうへ、迷い込んだのだった。

小さな祠が目についた。
賽銭をくすねるつもりだった。
ところが、扉を開けると、ピストルが転がり落ちてきた。

「おぃ!何してんだ。他所様を荒らすな。何が起きるか、わかんねぇぞ」
抑えた声だったが、凄味と怒気に満ちていた。
(このピストルは本物なのだ)と察した。

アサヒは、ピストルを元に戻すと、「来い!」と言って、わたしの手を引いて走り出した。

「おぃ!撒け、うまくやれ」
二つの動く影に向かって言った。
あとから思えば、それは、リュウとリョウだった。

しばらく走り、河川敷の、わたしたちの背丈を超える葦原に逃れると、ようやくアサヒは止まり、振り向いた。

「おまえ、女か?金、ないのか?」
頷いた。
「どこから来た?」
首を振った。
「遠く。どこからか、わからない」
そう答えた自分の声こそ、遠くに感じた。

どこから来たか、本当に、わからなかった。
自分がどこから来て、どこへ行くのか。
思い出そうとしても、頭に靄がかかり、視界も狭まり、耳も遠くなる気がした。

「名前は?」
「りん」
「そうか、鈴虫みたいだな」

日がすっかり落ちてから、わたしは、アサヒに連れられ、タバコ屋の天井裏に忍び込み、潜むことになった。

「いいか。盗むな。売るな。売られるな。できるだけ人目につくな」
アサヒは、眉間にシワを寄せ、目を三角にして言った。

わたしが深く頷くと、
「なくのもだめだ、鈴虫でも」
と、にやりと微笑んで去っていった。

一日に一回は、「見回りだ」と言って、リュウかリョウがやってきて、食べ物を置いていった。

盗み、ピストル、運ばれてくる食べ物……何だか既視感がある、と思った。
反芻するうち、『ごんぎつね』だ、と思い出した。
(わたしは、さながら、うなぎを盗んだ、ごんのほうなのに、お供えするのではなくて、されるのか。あべこべだな)と思った。

天井裏に潜んでいるのは、暇だった。
かすかに、もれる光から、天井板(わたしからすると床板)の、板と板の間に、僅かな隙間があることがわかった。

下を覗き見することが、暇つぶしになった。

タバコ屋のお婆さんは、確かに耳が聞こえないようだった。
そのことは客もわかっていて、タバコの銘柄番号を指で知らせたり、用意された紙に書いて、注文していた。

でも、お婆さんは、耳は聞こえなくても、わたしには当初から気づいていたと思う。
そして、わたしも、このタバコ屋には、何らかの裏稼業があることに、薄々気づきつつあった。

客の書いた数字が「66」か「99」のとき、店の空気が、何か、変わった。
「66」のとき、お婆さんは客から何かを受け取った。
「99」のとき、お婆さんは客へ何かを渡した。

その何かは、タバコではなかった。
棚にしまわれることがなかったし、店頭に「66」番も「99番」も置かれていなかった。

ある日、66の客が去ると、お婆さんは、「69」のタバコをつけて、こちらに向けて、煙をふーっと吐いた。

くるくると立ち上ってくる煙の合間から、お婆さんが可笑しそうに微笑むのが見えた。

「69」は、その棚だけ、客側ではなく、お婆さんの方を向いていた。
客向けではない、たぶん普通のタバコではない。
そして、その煙は、他の煙よりも、目にも肺にも沁みて目眩がした。
ただ、お香のような、いいにおいではあった。

たまに、河川敷の葦原で、アサヒたちに会った。
何をするのでもない、ただブラブラ歩いて、世間話をするだけだった。
わたしは、自分から話せることはなく、ほとんど黙って、後ろをついて行くだけだった。

タバコ屋に裏がありそうなことも言わなかった。
確かなことはわからないし、リュウとリョウ流に言うなら、礼儀でもあった。

アサヒたちも、とっくに知っていたのかもしれない。
彼らの知ることを、わたしは知らない。
どういう暮らしをして、なぜわたしを匿って、あのピストルがどうなったか、全く知るよしもなかった。

ただ、アサヒには、そっくりな顔の父親がいる、ということだけ、知った。

そのうち、秋が深まり、寒さが厳しくなってきた。

雪が降り積もり始めると、アサヒも、リュウも、リョウも、姿を見せなくなった。

(わたし、見捨てられたんだな)と思ったが、鈴虫だって死ぬ頃だ。

しかし、捨てる神あれば拾う神ありなのか、出入りをする壁際に、食べ物が置かれるようになった。

でも、それがお婆さんの計らいだということは、見たら、見ていたら、わかった。

ドカ雪が降ったのちは、更に冷えて、タバコ屋も、近くの商店も、閑散として、暇そうだった。

そんな折、「りーん」という音が聞こえてきたのだ。

「りーん」という音の正体、アサヒの父親が持っていたのは、まさに「おりん」だった。

仏壇においてある「おりん」。

それで、すべてを察してしまった。
アサヒは死んだのだ、と。

おじさんも言った。
「骨、拾いに来たんだ。ちょいと付き合ってくれないか」

おじさんの白のハイエースに乗り込むと、後部座席に、白い骨壺が3つ並んでいた。
それぞれに、ソン・アサヒ、リュウ・リョウ(兄)、リュウ・リョウ(弟)という名札がついていた。

「どっちが、リュウで、どっちが、リョウなの?」「ごめん、おじさんもわからない」
わたしは、最後の最期まで、リュウとリョウの見分けをつけることができなかった。
申し訳ないと思った。

「アサヒは、ソン・アサヒっていうんだね」
「そう、で、おじさんは、ソン・サン。son、sun。『太陽の息子』って意味。わかる?」
首を傾げたが、おじさんは構わずに続けた。
「だから、アサヒは、『太陽の孫』。良いだろう」

冗談のつもりなのか、笑っていた。
おじさんの言葉は、はかりかねた。
おじさんは、全身に、涙にぬれた悲しみというより、乾ききった諦めをまとっていた。

黙っていると、おじさんは深く息をついて言った。
「ようやく見つけたんだよ、おれの子羊を」
(そうか、おじさんはホッとしたのか。安堵なのだな)と思った。

空は暗い灰色で、吹雪いていて、視界が悪かった。しかしそのうち、いつもの葦原に、車ごと乗り入れていることに気づいた。

おじさんは、どうしてここがわかったのだろう。
(いや、わかってしまうのだろうな)と思った。

おじさんは、車から降りると、足で土を均し、風車を3つ立てた。
風車は、くるくると回った。

「りんちゃんも、こっちへ来て」

葦原は、いくらか風が遮られて、いくらか温かく感じられた。
風車は、カタコトと鳴り、楽しげだった。

「『ういからむいへ』
まじないだ。一緒に唱えてくれないか」
「ういからむいへ?」
「ういからむいへ」

時折、突風が吹いて、風車は、壊れそうなくらいに、びゅんびゅん回った。
その目まぐるしさには、お婆さんの「69」のタバコが思い起こされた。

「婆さんのは、あれは、クスリだね」
と、おじさんはボソッと言った。
そうだとは思っていた。
「そう、あれを吸うと、どこも痛くないの。寒くないし、苦しくない。無敵になる。死ぬのも怖くない」

おじさんは頷きながら、まじないを唱えるのをやめなかった。
目を瞑り、手を合わせていた。
「ういからむいへ。ういからむいへ。ういからむいへ」

突然、風が変わった。
右手側、河口の方から、大きなうねりが押し寄せてくるのを感じた。
既視感がある。
前にも、あれに飲まれたことがある。

思い出したものと、見たものが一致したとき、一気に飲まれ、流された。

「ういからむいへ」
「有為から無為へ」
「有意から無意へ」

ういからむいへ、往くのだ。

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