先祖崇拝に代わる未来存続システム
どうも、水野悠平です。
お盆休み、終わってしまいましたね。
そもそもお盆休みなんてなかったという方もいらっしゃいましょうが、今日で夏休みが終了という人も多いのではないでしょうか。
日本では多くの組織が年末年始とお盆に休暇の制度を持っています。
それだけ、お盆に帰省して先祖のお墓参りをするという習慣が日本に根付いていたということでしょうか。
歴史小説などを読んでいても、「先祖に申し訳が立たない」という登場人物はよく登場しますよね。
先祖崇拝って昔はかなり強力だったんですね。
そしてこの先祖崇拝とセットになる祈りが「子孫繁栄」です。
今ここにある自分の存在は、先祖が作ってきたこの世界のお蔭である。それを自分は引き継いで、この世界の存続に貢献し、子孫に受け継いでゆく。
先祖崇拝・子孫繁栄祈願とは、このような世界観にもとづいていたと考えられます。
考えようによっては、かつての日本では、仏教でも神道でもなく、上記のような先祖崇拝的世界観が最大公約数の「信仰」であったとも言えなくもありません。
しかし現在、このような世界観を持っている人がどれほどいるでしょうか。
先祖といっても自分の祖父母ぐらいまでしかわからないし、それ以前の人に尊敬や親愛の情などない、子孫にしたって子や孫の代ぐらいまでは想像できるが、それ以降はどうなっているかわからないし、ましてや責任など持てない。
私も含めて、多くの人がそんな感じじゃないですか。
しかしですね、人々の未来を存続させるシステムとして先祖崇拝には大きな力があったのではないかと思うのです。
少なくとも昔の日本人は、「ほぼ間違いなく未来の子孫に迷惑がかかる」ようなことをおおっぴらにはできなかったんじゃないでしょうか。
そりゃもちろん、昔の日本人だって多くの過ちを犯しています。その結果、子孫に迷惑をかけています。でもそれらはわざとじゃない。未来の子孫に迷惑がかかるなんて予想できなかったというものがほとんどのはずです。
むしろ子孫繁栄のためにある意味自分たちが犠牲になってまでしたのが、あの戦争だったわけで……。
少し話がそれましたが、とにかく先祖崇拝には人々に未来への責任を喚起させる役割があったのです。
しかし先祖崇拝はすでに薄れ、多様な価値観が生まれています。そのこと自体は生きやすい世の中になるし私もいいことだとは思うのですが、個人に最適化された選択を全員がしてしまうと、全体としては上手くいかないことは世の中に多々あります。
特に未来の問題になると、声を上げる世代がまだこの世にいないのですから、なし崩し的に「ほぼ間違いなく未来の子孫に迷惑がかかる」ようなことがなされがちです。
環境問題しかり。
社会保障制度問題しかり。
本当にどうすればいいのでしょうか。
たとえばSDGsのような考え方は、上記のような問題に対処するために生まれてきたのだと思います。
ただ、今のところ日本では、かつての「先祖崇拝」ほどの広がりはありません。
また、多くの人がその言葉を知っていたとしても、内面化して行動を変容させるほどではないように見えます。
ひとことで言えば、「先祖崇拝」ほどのパワーがない。
これからSDGsのような考え方が発展して、先祖崇拝に代わる未来存続システムとなっていくのでしょうか。
あるいはまったく異なる強力な未来存続の傾向を持った思想が生み出されるのでしょうか。
はたまた、しばらくの間は「ほぼ間違いなく未来の子孫に迷惑がかかる」ような決定が次々となされ、数百年後の未来は地獄絵図となるのでしょうか。
皆さん、どうなると思いますか。
ではまた、お元気で。