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エッセイ「小さな赤い鳥居」

 夕飯の食材をスーパーで買って自宅に帰ろうと歩いていたら、突然何かが視界の端に入った。「小さな赤い鳥居」である、街路樹の足元、それも針金らしきものでくくりつけてあったのに、ぎょっとした。喫茶店の出入り口のすぐ前だから、お店の人は知っているに違いない。
 エコバックを両手に持ったまま、立ち止まってしげしげと見た。
高さは20センチほど、明らかに素人が作ったであろう木製の簡易なもので、全体は赤の塗料で塗られているが、上の横棒の上半分が黒色になっている(反り増しの笠木の部分)ところに作者のこだわりを感じた。とりあえず、写真を撮って自宅に向かった。

 最初に思ったのは、―あの下には金魚が埋まっているのでは―だった。
もう、五十年も前になるが、私が子供のころには飼っていた金魚が死ぬと、家の前にある街路樹の根元に埋めていた。実家は、名古屋駅近くの下町の商店街で飲食店をしていて庭がなく、一番近くにある土が街路樹だったのだ。猫が死んだ時は、さすがにそこでは狭いので近所の公園に埋めに行った。
 今思えば、やりたい放題である。
 同級生に聞いたら「うちの実家の敷地内にもいったい何匹の生き物が埋まっているんだか」というからそういう時代だった。

 それにしても、あの鳥居はいつからあそこにあるんだろうか。いつも買い物は自転車だったので、視線がもっと高かったし、ぴゅーっと過ぎていたから全然気がつかなかった。自転車は主婦の友である、いや、私にとっては親友と言っても過言ではない。駐車スペースも狭くていい、小回りもきく、なんとなく運動した気分になるし、風を感じるのは爽快だ、何より重い荷物を持たなくていい。
 そんな親友を置いて、最近は歩くことにしている。実は、歩くことで得られるメリットが半端ないと知り(その素晴らしいメリットについては別の機会で書くとして)、なるべく歩くことを私の人生に採用したことで、こんな謎を発見するとは副産物をもらったようで面白い。

 自宅に帰って娘に話したら「そういえば、小学校へ行く途中の電信柱にもあったよ。昔はなかったと思う。」というから驚愕した。やはり設置されたのは最近なのだ。他にもあるのかと気をつけていると、バス停の近くにも見つけた。こんな目立つところに、いつの間に!と思ったら妄想が広がる。

 ―何かの暗号なのか―あるミッションを遂行するために、誰かが(スパイみたいな)善良な市民をうまいこと言いくるめて設置させたとか、ミステリーである。
 ―いや、何かの封印ということもありえる―誰かが(陰陽師みたいな)よくない輩が出てこないように結界をはったとか、もはやファンタジーである。

 もしかしたら他の地域にもあるのではないかと思い、ネット検索をしてみたら、出てきた、出てきた。どうやら、犯罪防止が目的のようだ。場所も大きさもいろいろで、色も赤の他に黒もある。中でもテレビのニュースで取り上げられていたものは、田舎の道路に等間隔で設置された50センチくらいの複数の赤い鳥居で、ごみのポイ捨てや産業廃棄物の違法放置に困った村民の一人が考えたものだった。
 昔は玄関の引き戸の下の方につけられた13センチくらいのものもあったようで、最近では神社やコンビニの駐車場のフェンスにも20センチくらいのものが何個かつけられていて、これは立ちションやゴミ捨て対策だ。

 ということは、近所の赤い鳥居たちは、―ペットのトイレにしたりポイ捨てはやめてください―ということだろう。確かに、禁止の看板や張り紙をするのはストレートでわかりやすいが、見栄えも悪いし、読んだ方もあまり心地よいものではない。
 それを鳥居にしたのは『神様が見てますよ』というメッセージであり、日本人のDNAに刻まれている神仏に対する信仰心(万物に神が宿る)に訴えかける奥ゆかしいアプローチなのだ。

 今日も「小さな赤い鳥居」はちょこんとそこにあった、今度はなんだかほっこりした気持ちになった。

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