ケアのあれこれ4 ふれることとふれられること

頭が痛いとき、お腹がいたいとき、転んだとき、ぶつけたとき・・・。なにか調子が悪くなると、無意識にそこに手を当てたり、さすったりしていることに気付きます。

調子がよくない場所や怪我をした場所に、誰かが手を当ててくれたという体験が、そうさせるのかもしれません。

今回はしんどいときに手を当てる、ということについて書いてみたいと思います。

自分の手を誰かの身体に当てたとき、相手のしんどい部分の様子をてのひらで感じ取ります。腫れているかもしれないし、熱くなっているかもしれないし、身体の中の調子の悪さで外見上や触った感じはなんともないかもしれません。いずれにしても、手を当てているときにはてのひらから伝わるもので相手を感じ取るということが主で、手を当てられた相手の感じていることを、相手が感じているのと同じように感じることは難しいです。

一方、自分が手を当てられているときには、手を当てられている場所の感覚を感じ取っています。手を当てられてあたたかいとか気持ちがよいとか、そういうことを感じながら、手を当ててもらったことによって調子のよくないその場所がどんな風に変化するか、例えば痛みが和らいできたとか、そういうことを感じ取ることができます。一方で、手を当てている人が手のひらでどのような感覚を感じとっているかをその人が感じているのと同じように感じることは難しいです。

しかし、自分で自分のしんどいところに手を当てた場合、自分の意識をどちらに持っていくかで、感じるものが変化します。痛いところにフォーカスするのか、当てている手にフォーカスするのかによって感じるものが変化して、例えば、痛いところで痛みが引いてきたことに気がつけば気持ちが落ち着いてきたり、当てている手で腫れが引いてきたことに気付けばほっとするかもしれません。

これは私の場合ですが、手を当てられているところへの気付きと、当てている手への気付きの配分を工夫すると、楽になる近道を抜けられたりします。触れている手を意識するのか、触れられている場所を意識するのか、みたいなことです。

例えば、猛烈におなかが痛いときは、初めから手を当てられているおなかに気付きを向けるとかなりつらいです。つらい感覚をしばらく味わっていないといけません。意識しなくても痛いことには十分気付けるので、まず初めに当てている手のひらの感覚に気付きを向けます。

暖かいとか、冷たいとか、柔らかいとか、張っているとか、いろいろなことに気付くかもしれません。そんなことに気付いていると、総合的に痛いという感覚への気付きは手を当てる前と比較して微妙に変化しているかもしれません。他のことに気付いている分、痛いという気付きが若干でも薄れているかもしれません。そうこうしているうちに、お腹の痛みの微妙な改善に気付く余裕が出てくるかもしれません。

やっていることは同じでも、触れている手の感覚を意識するのか、触れられている場所を意識するのかによって、総合的な体験はだいぶ違ってくる、なんてこともあったりします。どうせ触れるならその恩恵は最大限受け取りたいですね。

というわけで、今回は触れることと触れられることについて少し書いてみました。

ちなみに、気付きのフォーカスをさらに絞るという観点で、痛いところが痛くなくなってきたけど、『まだ痛い』というところに気付きのフォーカスを絞れば、良くなってはいるけど落ち込むモードになるかもしれません。ほんのちょっと良くなってきたとか、痛みの質が変わってきたということに気付けばなんとなく元気が出てくるかもしれません。このあたりはまた、別の機会に書いてみたいと思います。


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