制御という魔術を覚えよ
暇つぶしに読んだ建築の基礎の本で、工事・建設の始祖は自然を制御するためにそもそも始まったと知った。
そして今なおそれがメインであると。
荒ぶる自然のままでは縄文さん達よりゼータク・ひ弱になってしまった人類は暮らせないから。
で、それにより各地の王様が民草を制御するのもシステマティックに出来るようになった。
制御するのは?
自然のもの。
外にも、そしてヒトの内部にも。
ごく若いうちから感情制御の出来なかった水宮は、当然世の中とも家庭とも合わず精神病院を出たり入ったり。
自分の中の自然。
感情。
それを殺せたらじゃあ、世の中でやってゆける?
数十年かけて答えは出た。
無理。
もう社会的に隠居します。お叱りはごもっともだが数十年努力はしてきたし散々痛い目にも遭った。
もういいわ。
文句を言われる前に私は逃げ出した。
追われるように。
そして、夢が叶って、秋の満月を眺めていた。
格子の(孔子の?大っ嫌いだわ^_^)嵌っていない窓から見上げる完璧な満月。
これを見ることがずっと夢だった。
こんなに美しい。
こんなに自由。
やっと自由。
私はずっとうれしくて泣いた。もう「押しとどめなさい」と命令する人たちもいない。
外へ出ればお行儀よくはできる。それが唯一、できる私の制御。そして憎んだり恨んだり思い返して腹を立てたりしないし、余計なものも見ない。
師匠?花や猫や鳥や虫たちよ。あるいは水やおトイレとかね。
感情は自由。
想いは自由。
愛するひとも自分の意志で好きになった。
したいことも自由。
ただ、そこから人間的な欲はもう抜け落ちてしまった。
これも私の中の自然を制御するのに役立ってくれている。
欲しいもの?
ビンボーだろうが、もうみんなもらっているわ。
そう感じるようになると妙な話、体内に巣食っていた病や痛みが溶けて無くなった。
月の明かりの下で、遠くの愛するひとを想ってうれしくて、今日死んでもいい、なんて感じていただけで。
私の「神さま」たちはなぜいつも、「逃げろ隠れろ消えろ」と教え続けてきたのだろう?
ほかそうした一種精神病患者ならではの「声」はなぜ悉く的中し、悉く自分にマッチしたのか?
ありがとうとだいすき、だけ考え、明日は明日としか思わない。
強制されないししない。黙ってにこにこ通り過ぎる。
今日やれることだけを。死もその中にあるかもだけどそんなものだ。
だってもうある。
お月さまもある。
私がかれらのもの、でもあるし。
「自然」を制御できる。それは魔術に等しい。
私は消えていられる。