金色の魚
賢者は質素な麻の衣に手を隠して言った。
「いずれ恋など、子孫繁栄のための幻に過ぎぬ。考えねばならぬのは世の中全体のことだ」
彼の書物は遠き国まで知れ渡り尊いとされ、人々はそれを世の規範としてきた。
「いずれ恋など。相手は風か花か。どうすることもできぬもの」
物憂げに詩人は琴をかき鳴らして歌った。彼の美しい歌を聴いて皆がその通りだと涙するという。
「お可哀想に。私のところへおいでなさい。情念に傷つくことを超えてこそ、真の人間になり得るのですから」
慈悲深い様子で高僧が私へ手を差し伸べた。民が最後にゆくのは彼の所という。あらゆる欲得を超えて捨て、穏やかに死を迎えるために。
私は黙っていた。
私は誰の言葉にも与しない。
あの、しなやかな金色の腕。五月の花のような恋人の笑顔。
今度こそ彼を手に入れられなければ、私の魂は死んでしまう。
でも、手に入れるですって?
そこは風雅な硝子張りの床の大部屋で、三人の賢者は並んで卓に着いていた。私は向かって一人立っている。
その時、男とも女ともつかぬやわらかな声が降った。
「選びなさい」
硝子張りの床の下は、池であった。
声がしたと同時に、あでやかなあらゆる鯉が泳ぎいでた。いずれ目にも彩な美魚たち。
選ぶ?
中にいっ匹だけ、大きな金色の魚がいた。高貴で優しい。私は迷わず言った。
「あれをください」
「心得た」
間もなくおつきの者が数人、銀の盆の上にばたばた暴れるその金色の魚を載せて入ってきた。
声は賢者たちに訊いた。
「お前たち、これをどうするね?」
賢者はすぐさま解剖をし、標本にするがいいと言った。
「これほど立派で稀有な魚なら、良い研究材料にできるでしょう」
詩人は夢見るように言った。
「これほど美しい魚を見たことがありません。ああ、是非これを硝子の器に入れて飼って、日がな眺めて暮らしたいものだ」
高僧は言った。
「これは天の御遣いかもしれません。片目を潰して聖別すべきです。いや、これほど美しいものは悪魔でないとも限らない」
私はたまらず、暴れる金の魚に駆け寄った。私のただ一人の恋しいものに。
(あなた、苦しいでしょう?死んでしまう、水の中に帰らないと)
(きみがすき。ずっとそばにいたい。でも、息ができない)
(私もずっと好き)
声が再び訊いた。
「で、お前はどうするね?」
即答した。
「このひとを、今すぐ水の中へ」
「承知」
笑うような声が割れ鐘のように響くと、床の中央の硝子がシャンデリアのように割れた。大量の鯉たちが飛び跳ね、大きな金の魚をさらうようにして連れ去った。
「ぬしよ、ぬしよ、よく帰りたもうた」
魚たちはひれで鰓で、嬉しげに歌い、しばらく金の魚の周りをぐるぐる舞い泳いだ。
私は割れた硝子の穴のふちに跪いて、見ていた。やがて金の魚が足元に来た。
(いつまでもすき)
(私もいつまでも)
(わすれない)
(わすれない)
かれは仲間と行ってしまった。
気づくと、部屋にはもう誰もいない。
その時、私のいた床が砕け、私は水下に落ちて魚になった。
いい気持ち。
ばかなこと。
こんな恋。
なんの役にも立ちはしない。
私は彼が泳ぎ出た太古の海へ、ゆるゆると泳ぎ出す。
ばかなこと。
本にもならない。
なんの役にも立ちはしない。
ああ、いい気持ち。