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『原神』フォンテーヌの演者達に花束を。

11月8日。
『原神』のメインストーリー第四章「罪人の円舞曲」が完結した。
裁判所を歌劇場と呼び、罪の告発と裁きを娯楽として楽しむ「正義の国」にして、水神フォカロルスが治める「水神の国」でもあるフォンテーヌ。
そのフォンテーヌに訪れるという「滅びの運命」を回避するために、旅人(=プレイヤー)は滅びの運命の正体を突き止めるべく、フォンテーヌ各地を巡ることになるのだが、「円舞曲」と名付けられていることからも分かるようにこの物語で重要なのは三人のキャラクター達である。
ヌヴィレットは最高審判官というフォンテーヌの最重要人物の一人であり、ある事情から『原神』の舞台となるテイワットにおいても重要な立ち位置となっている彼は、この物語を悲劇に終わらせずに幕引きまで導いてくれた。彼がいなければこの物語が滅びの物語として幕を下ろすところであったし、そんなヌヴィレットの変化や決意をあの一言に込めた神谷浩史の演技には唸るしかない。
「水神フォカロルス」として序盤から登場したフリーナは、この物語において水神としての役割を見事に演じ切ってくれた。だが、私の心を強く打ったのはフリーナが誰よりも人間らしい存在であったことであり、それこそがこの物語を悲劇に終わらせなかった最大の理由になっていることだ。
フリーナは調子に乗りやすく、落ち込みやすい。正義は我にあり!と思えば残酷なことでも口にするし、自身の発言が思いがけない残酷さを帯びていることに気づくと慌てふためく。
そうしたフリーナの姿をかつての私は「守護らねばならない」という表現をもって「愛らしい」としていた。フォンテーヌのマスコットキャラのようであった。
しかし物語が進むにつれて描かれていくフリーナの「不確かな希望が、いつか訪れることを信じ続ける」という姿は「愛らしい」どころではなかった。それは人の強さであり美しさだ。
希望が訪れる日を信じ続けるしかなく、自身を告発する者や、自身を気遣ってくれる者にすら自身の全てを明かすことなく、たった一人で希望が訪れる日を信じ続けた彼女は誰よりも人間らしい存在だった。そんなフリーナだからフォンテーヌの人々が救われる展開も素晴らしかったし、フリーナと共に演じ切った水瀬いのりは最高の演技を見せてくれた。
旅人(つまりプレイヤー)も素晴らしい存在だった。
今回の旅人は「テイワットの外からやってきた存在である」という設定上の利点を巧みに駆使し、フォンテーヌを舞台にした物語を「積極的に参加する観客」として盛り上げてくれていた。観客がいなければ舞台は完成しない。彼、あるいは彼女のような存在があるからこそ悲劇に終わる物語に付け入る隙が生まれるのだ。
それにしても。
まさかフォンテーヌでレヴィアタンやノアの箱舟、原罪などの旧約聖書を主な下地とした物語を展開されるとは予想すらしてなかった。予想してなかっただけに、それらを『原神』のフォンテーヌの物語として上手くまとめていること、クライマックスでしっかりとキャラクター達が魅力的なものとなっていることが私は何よりうれしい。
そもそも「舞台演劇」が全体のモチーフになっているからこその物語である点も素晴らしいのだが、これからver4.3以降でもこうした要素が生かされるのだろうか。生かされてほしい。
なんにしても。
まずは役を演じ切った者達に祝福と花束、そして拍手を。
そして精いっぱいの感謝と感想を送りたい。

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九条水音
プリズムの煌めきを広めるためによろしくお願いします。