【小説】第1話 多元宇宙論と天海

 大学の後期講義が開始し、一ヶ月が経過した。
 十月の秋風が、少し開いた窓から教室の中へと流れ込んでくる。窓の外には赤や黄色に色づいた木々が並んでいて、舞い落ちた葉が絨毯のように見える。特に神谷司かみやつかさのいる大講堂からは、銀杏の木がよく見える。

 今日の一限は、宇宙論の講義だ。寝坊しそうになった司は、慌てて家を出て、既の所で遅刻を回避した。地方から上京し、起こしてくれる者が誰もいない一人暮らしの現在、頼りになるのは携帯端末のアラームだけである。司は現在大学三年生で、今後の進路は検討中だ。将来的には、寝坊したら起こしてくれるような相手と結婚し、家庭を築きたいと考えている。だが今は、恋人も特にいない。

 なお、この宇宙論の講義には、他の多くの広義とは異なり、出席確認がない。
 学期末の課題もレポート提出のみで、テーマも非常に簡単だ。そのため受講希望者が多く、希望者数に伴い大講堂で講義は行われているが、実際に毎週きちんと出席しているのは、司を含めて両手の指でも数えられるほどの少数の学生だけだ。

 教授の声が、眠気を誘うのも悪因なのかもしれないと、司は考えている。
 担当の 真鍋まなべ准教授は、聞きたい者のみが聞けばいいという姿勢であり、やる気の無い学生が多い学部での講義では、本人もまた熱を込めないと評判である。

 司も例に漏れず、宇宙論にはさして興味がない。元々の受講動機は、それこそ単位が取りやすいと耳にしたからだ。他の講義も、似たり寄ったりの理由で選択しており、司は決して真面目な学生ではない。かといって、不真面目でもない。

 どこにでもいそうな、大学生。
 それが多くの、司に対する評価だ。

 そんな司が、他の講義とは異なり、朝が苦手なのにもかかわらず、午前九時半に開始の一限に出席している理由、それはごく単純な理由である。

 興味本位で、一番最初の講義だけ出席したのだが、その内容が面白かったからだ。
 今期の宇宙論では、多元宇宙論マルチバースと呼称される理論体系を扱っている。
 どこか哲学的だという揶揄されることも多い理論だが、司はそれが悪口だとは思わない。

 宇宙について人間は、哲学的あるいは思索的に考察をはじめ、その歴史は長いが、次第に考え方が科学的になっていった。そしてそれがまた科学の力で端緒に戻ったかのような、そんな印象を与える理論だと、司は考えている。

 その考え方に触れるのが楽しくて、本日も司は前を向いて真面目に、真鍋先生の話を聞いていた。

 一限目の講義の終了は、十時二十分だ。
 講義は一度につき八十分である。
 この日は人間原理についてルーズリーフに走り書きをしていた司は、それをファイルにはさんで鞄にしまう。

 マルチバース理論というのは、非常に簡単に言えば『宇宙が沢山ある』という理論だとされる。しかしながらこの理解は、実際には正確ではない。その背景には様々な考察がある。ただ何も知らない相手にわかりやすく述べるならば、そうなるというだけだ。

「宇宙の数だけ歴史があったりしてね」

 ぽつりと司が呟いた時、隣に立つ気配があった。

「おはよう、司」
天海あまみ、おはよ」

 司に声をかけたのは、この講義に毎週出席しいる数少ない一人である天海だった。
 下の名前は知らない。クラスも知らないし、学部も知らない。ただ、以前「呼び捨てで呼んでくれ」と言われたため、司はこう呼んでいる。

 天海は流行の最先端に位置しそうなウェーブをつけたマッシュボブの髪型を若干茶色く染めている。顔立ちもモデルにでもなれそうなように整っている。

 一方の司は、気を遣って流行の髪型にしてはみるものの、天海のようには垢抜けていないと自分に対して感じる場合が多い。元の顔立ちのせいだろうか。

 司だって別に容姿が悪いというわけではないが、天海がより秀でているのは明らかだ。長身で少しだけ日焼けしたような色をしている天海は、174cmの司よりも10cmは長身に見える。天海と歩いていると、普段は跳んでこない女子からの視線を感じるので、世間の目とは正直だと司は感じる。

「次は三限まで空きだろ?」
「うん。学食で、ちょっと早いけどご飯にしようかと思っててさ」
「俺も行く」

 本日は木曜日。
 天海と司は大体この曜日に講義が重なる。天海が司に声をかけてくるのは、大体が木曜日だ。考えてみると、他の曜日には天海と顔を合わせたことないと、司は思った。知り合ったのは、後期に入ってからである。何度目かの宇宙論の講義のあとに雑談したのが契機だった。

 その後二人で大講堂を出て、エレベーターホールで到着を待ちながら、最近流行している映画の話に興じる。司は流行に疎いが、天海はなんでも知っている。二人でいると様々なことを司に教えてくれる。そこには嫌味がなく、会話は機微に富んでいて、外見だけでなく内面からもモテるのが分かるという印象だ。

「司? どうかしたのか?」

 エレベーターに乗り込んだ天海が、首を傾げている。

「なんでもない」

 こうして二人で学食へと向かった。

 司は天海と学食にきたことは何度かあったが、実は彼が食事をしているところは一度も見たことがない。白い使い捨ての器に入った唐揚げそばに七味をかけてから、それと割り箸を手に司が座ると、天海は持参したらしきペットボトル入りの水を飲んでいた。天海はいつもその『エリクシル』と読み取れるロゴがパッケージに入った水を飲んでいるが、ちなみに司は自動販売機やコンビニでその商品を見たことは一度もない。

 その時天海が顔を上げた。

「今日はバイト、休みだったよな?」

 何気なく尋ねられたので、司は割り箸を割りながら頷く。
 貧乏学生の司は、現在創作ダイニングバーでアルバイトをしている。

「うん」
「たまには飲みにいかないか?」
「いいね」

 考えてみると、天海とはまだ飲みに行ったことは一度もなかった。司は別段酒が好きというわけではなかったが、せっかくのバイトの休みだから、たまには息抜きもしたい。それにいつの間にか顔見知りになっていたが、まだあまりよく知らない天海についても知りたいと考える。天海の話は面白いが、己が彼について知ることはほとんどないと司は思った。司が笑顔で同意すると、天海もまた楽しげに唇で弧を描いた。

 そのまま三限の開始まで学食で雑談をし、午後になってまた別の講義に臨んだ。
 四限と五限も、天海は司の隣に座っていた。

 司は平均的な学生なので、講義中に携帯端末を弄る場合もある。それは多くの学生も同様で、司はデフォルメされた魚を育成するアプリのゲームに興じていた。画面の中の水槽の中には、宇宙がモデルのグラフィックが広がっていて、無数の星が散らばっている。DLした人間の数だけ、宇宙と熱帯魚も広がっている。まるで一限の時に他言で考えた、数多の宇宙像そのままだ。

 ちらりと司が天海を窺えば、彼は真面目に黒板を見ていた。この教室ではレトロな黒板が使用されている。配布物も紙資料、レジュメだ。左手に万年筆を持つ天海の指は長い。高級そうな万年筆を左手で繰っているが、右手で天海はタブレット端末の操作をしている。そちらのタブレット端末は最先端の品のようだ。タブレット端末も、ノートをとるための品として、講義では持ち込みが許可されている。

「天海って両手利きだったりするの?」

 小声で司が尋ねると、天海が口元を綻ばせた。

「まぁな」

 余裕ある声音は、いつもの通りだ。
 天海は外見からも持ち物からも、裕福さが窺える。奨学金をもらって大学に通っている司からすると、天海は富裕層に見えた。

 その内に講義が終わり、二人は教室を出た。
 構内の坂道を下り、バスのロータリーを目指す。

「どこで飲む?」
「お前のバイト先に行ってみたい」
「いいよ。マスターにも連絡入れとく。サービスしてくれるかも」

 頷いた司はメッセージアプリで、バイト先のマスターである時実ときさねに連絡を入れる。二人で乗り込んだバスの行き先は、バーの入る雑居ビルのすぐ横の駅前だ。

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