中編小説『最初の人』15
宮田に昨日のことを報告すると、彼は、まさか本気でいくとは思わなかったっすよ、と目を丸くして驚いた。宮田はただの思いつきで口にしただけのようで、俺が話すまで自分のアドバイスを忘れていたようだった。
「やるときゃ、やる男なんですね。夏木さんも」
トマトスパゲティを前に、宮田はうれしそうに笑う。
「そんな大げさなことではないけどな」
イタリアンレストランの昼下がり。宮田は器用にフォークとスプーンを使って、慣れた手つきでスパゲティを口に運ぶ。
「でも、いいんですか? 浮気なんてしちゃって」
宮田は口についたソースを指で拭いながら、不敵な笑みを浮かべる。俺は一瞬動揺した。
「なんだよ、それ。べつに浮気するとはいってないだろう。彼女の家に行って、彼女がもうちゃんと家庭に入ることを知れただけで、なんか納得いったし」
「え? その人結婚してるんですか?」
「まだ。婚約中らしいけど、でもすぐに結婚するんじゃないかな」
「早く会わないとやばいっすよ」
「だからいいんだって。それに連絡先分かんなかったし」
宮田はわざとらしく固まる。
「マジっすか? なんのためにいったんですか? 連絡先訊いとかないとか、詰めが甘すぎっしょ。あまあまですね」
「うるせーよ。もういいんだよ」
早く食え、と俺は宮田のパスタの乗った皿に手の平を向ける。
夕飯を食べ終わり、由希子とソファでテレビを見ているところだった。スマホを見てみると、二件、メールが来ていた。一件は利用している旅行会社からのお知らせで、もう一件は、知らないアドレスからのメールだった。
彼女の家に行ってから、一週間が経つ。あの日から俺は、メールの受信に敏感だった。桜ちゃんからの連絡ではないかと、一件一件の受信に、気を配っていた。彼女も働いているとすると、連絡が来るのは夜のはずだが、そんなことも関係なく俺は四六時中、スマホをチェックした。
好きな人のメールを心待ちにしているのは、学生のとき以来か。忘れていた感覚が俺の気持ちに拍車をかけ、メッセージを受信する度、息が詰まった。
しかし、望んでいる連絡はなかなか来なかった。連絡が来るのは、迷惑メールばかりだった。迷惑メールだと分かると、その度に俺は舌打ちをした。いつも以上に、迷惑メールが煩わしかった。それらのメールをやり過ごしながら、それでも彼女からの連絡を待った。
旅行会社からのメールを開き、もう一件のメールを開いてみると、明らかに迷惑メールとは違う文面が並んでいた。ややかしこまった内容だったが、文末には”長澤桜”と署名されていた。
その文字を見た途端、心臓が波打ち、顔に血が集まっていく感覚がした。期待していなかった、といえばうそになる。宮田にいったことも半分は本心でも、半分は嘘だ。俺は桜ちゃんからの連絡を少なからず心待ちにしていた。
しかし、日にちが経つにつれ、迷惑メールの着信がかさむにつれ、彼女からの着信への期待は薄れていった。だが、それは、俺と由希子の過ごすなにげない日常に、突然やってきた。
不意をつかれた喜びに、俺はスマホの画面から目が離せずにいた。
隣に座っている由希子が俺を見て訝しそうな顔をする。
俺は、香港往復二万四千円からだって、と答えておいた。なにそれ、と由希子は笑った。
電車の中でスマホを取りだし、メールを開く。桜ちゃんへのメールを打つために。
一昨日メールが来てから、彼女とのやりとりは続いていた。彼女は懐かしがって、俺の近況を聞き、また彼女のことについて教えてくれた。おばさんのいっていた通り、彼女にも婚約者がいるようだった。
同窓会の前に、一度飲まないか誘ってみた。彼女は最近忙しいからと、難儀を示していたが、俺が二、三時間でもいいと送ると、彼女はこの日なら大丈夫だと、空いている時間を教えてくれた。
平日の夜だったが、早番だったので、俺は二つ返事で承諾した。
場所は彼女の勤務先である横浜で会うことになった。彼女の都合がつきやすいようにと、俺が横浜に赴くことにした。勤務先から横浜までは近いとはいえない。しかし、彼女に会うためなら厭わなかった。
家に帰るのも遅くなるだろうが、由希子には残業だと言うつもりだった。