中編小説『最初の人』13
俺は実家から、かつての小学校への通学路を通って、桜ちゃんの家を目指した。通い慣れてた道のはずなのに、二十年近くも経つと新鮮さに溢れている。しかし、歩いていると彼女との思い出をはっきりと思い出すことができる。
ここを二人手をつないで歩いていた日々を。
彼女の家に着くのはあっという間だった。思考を巡らしていることによって、時間の経過は意識の外に追い出されていた。
彼女の家の前に立つ。窓からこぼれ出る灯が、俺を夜光虫のように誘っているように感じ、そして愛おしくもさせた。彼女が育った家。その外観が俺に小学生時代を思い出させる。
愛おしさと懐かしさは、俺に訪問する勇気を与えるのに十分だった。俺は戸口に立った。心が振動していて、それが体中に伝わっているかのように手や膝が震えている。
大好きだったあの子の家。怖いものはなにもない。
そう自分に言い聞かせて、一度深呼吸をする。だが、震えは止まらなかった。さっきまでの勇気が萎んでいくのが分かった。いざインターホンを鳴らそうとすると、やめようか、という気持ちがむくむくと湧いてくる。
このボタンを押すことは、俺の中のなにかが変わってしまうように思え、このまま帰る方がよいのではないかと強く思う。
ここまで来ていいのか。ここまで行動して引き返したら後悔する。
俺は抵抗してみたが、否定的な感覚は強くなり、耳がきんきんとしてきた。
俺は時間を置けば置くほど、その感覚は増すばかりだと思い、意を決して震える手をインターフォンに伸ばした。
耳の奥で耳鳴りが鳴っている感覚の中から、チャイムの鳴る音が聞こえた。
中から返事が聞こえるとともに、玄関に向かってくる足音も聞こえた。もう一度、はい、という返事が聞こえると、戸が開く。
中が確認できるほど十分に戸が開くと、エプロンを身につけた女性と目が合った。中から、他人の家の匂いがする。
「こんばんは、夜分にすいません。あの、小学生のとき桜さんと同じクラスだった、夏木です」
女性は訝しそうに俺を見たが、やがて驚いたように目を大きく見開いた。
おばさんは小学生のときに見たときよりも、随分と老けていた。愛らしい笑顔を向けて学校に通う子供たちにいってらっしゃいと声をかけていたあの子のお母さんが、年を重ねていることにいくらか衝撃を受けた。
髪の毛こそ、茶色く染めていて若々しいが、目尻や口元には皺が寄り、笑うとより一層深くなる。なんだか背も縮んでいるように見えた。でも、仕方がないことなのだろう。年月には、誰も立ち向かえない。
「夏木くんって、あの夏木くん?」
おばさんは一通り僕を眺め回すと、この距離で話すにしては、やや大きすぎる声を出した。あまりの突然のことに、つい大きな声が出てしまったという感じだった。
「覚えてますか?」
俺は恥ずかしさに俯いた。
「覚えてるよ。桜と仲が良かったもの。でもどうしたの、突然。おばさん、びっくりしちゃった」
おばさんはまだ興奮しているようだった。俺は顔を上げてもう一度彼女の顔を見ようとした。
おばさんは笑顔でこっちを見ていた。
目が合うと、娘の面影を見た気がして、胸が高鳴った。おばさんは、彼女に似ていた。小学生の頃からそうだった。おばさんは桜ちゃんをそのまま大人にした感じだった。
桜ちゃんは今、昔見たおばさんのように、大人びて、きれいになっているのだろうか。
たまらなく彼女に会いたくなった。