見出し画像

中編小説『最初の人』15

 横浜の地方銀行で働く彼女は、日ノ出町駅にあるマンションに婚約者と同棲している。
 通っていた大学も横浜にあり、学生時代の後半から横浜で一人暮らしをしていた。サークルはスカッシュサークルに入っていたが、今の彼氏とはアルバイトで知り合った。バーのアルバイトで、常連さんの誘いに乗ったのがきっかけだったという。
 彼女はそれらのことを、冗談混じりの文面で、丁寧に教えてくれた。メッセージの文面からも彼女の相変わらずの明るさが伝わってきた。また、長年連絡のとっていなかったのに、迷惑がらずメッセージを返してくれるところに、人柄のよさが滲み出ていた。
 俺は早めに仕事を切り上げ、職場をあとにした。退勤するとき、宮田が片頬をつり上げて見てきたことに対し、俺はぎこちない笑みを返した。
 心臓が高鳴っている。彼女を追い求めて行動してきたが、実際に会うまでに行き着いたのが信じられなかった。
 電車の中で落ち着かず、スマホをいじっていると、桜ちゃんからメッセージが来た。仕事が長引いてしまったので、予定の時間より少し遅れるという内容だった。
 俺はどこかのカフェで時間を潰してると返した。心の準備をする時間が少し増えたが、待つ時間があまり長くなるのも嫌だった。早く彼女の姿を目にして、幻を現実にしたいと思った。
 カフェで時間を潰しながら、婚約指輪を外そうかどうか迷った末、つけておくことにした。どうせ婚約していることは彼女に知られている。左手の薬指についた婚約指輪。由希子へのプロポーズ。七年間付き合った由希子と結婚するのは当然のことだと思った。この先も由希子と一緒に歩んでいくことは、確証されていることのように思っていた。
 愛してます、ずっと一緒にいよう。
 自然と口に出たあのときのことば。あのことばに偽りはなかったはずだ。ならば、なぜ? なぜここでこんなことをしているのだろうか。
 しかし、それは必然だったように思える。こうしてここに辿り着いたことが。人生に無駄なことはないとしたら、起こることはすべて必然だ。偶然なんてない。あの子が夢に出てきたことも、こうして会ってくれることも。
 無意識に親指で指輪を触っていることに気づき、すぐにその仕草をやめる。
 気持ち悪くなるほどの緊張に襲われている。
 俺はなにかを恐れている。それが由希子と結婚することなのか、初恋の人に今から会うことなのか、原因はよく分からなかった。しかし、俺をどこかへ連れていってくれる存在を待ち望んでいることは確かだ。
 彼女は十分ぐらいでそこに着くと告げる。了解と返信する。メッセージを打つ親指が細かく震えている。鼓動は鼓膜に響くほど、激しく高鳴る。
 いよいよだ。いよいよ、再会するのだ。
 そう思うと逃げ出したくなった。どうしても会いたかったのに、現れなければいいと思った。
 俺は無意味にスマホをいじった。彼女の名前を検索したスマホ。彼女の現在を想像したこと。
 現実の前では、もはや偶像の世界はなんの意味ももたなかった。
 デジタル時計が一分ごとに表示を変えると、世界の音はどんどん遠くなった。
 食器の鳴る音も楽しそうな話し声も、俺の耳には届かなかった。代わりに耳鳴りが聞こえる。
 昔、おばけを信じてた頃、夜中トイレに行くときに陥っていた感覚を思い出した。なにも出てきませんように。そう願って、怯えながら用を足していたこと。
「夏木くん?」
 スーツ姿の若い女性が、不安そうに俺の顔を覗き込むようにして訊いた。その顔を見た途端、心臓がひねられるように悲鳴を上げたが、さっきまでの恐怖はどこかに消えると体中には幸福感が漲り、それを感じとった顔には笑顔が出た。
「あ、久しぶり」
 たどたどしい声が出た。髪の毛は茶色く染められており、前髪が自然に横に流されていた。化粧を施した顔は目鼻立ちがしっかりとしており、輪郭がはっきりとしていた。身長も伸びている。
 俺は彼女の姿を目の当たりにして、一瞬にして彼女の積み重ねてきた歳月を感じとる。俺が想像していたよりもずっと大人びていた。しかし、幼さの残るその笑顔は、紛れもなく俺があのときによく見ていた笑顔だ。

(続)

いいなと思ったら応援しよう!