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中編小説『最初の人』19 (了)
俺は彼女の生活を壊そうとしている。
鼓動が激しくなり、体が強張った。耳の奥では耳鳴りがした。視界はぼんやりかすんでいくようだった。なにか取り返しのつかないことをしたという現実に呑み込まれ、彼女に触れることができなくなった。
彼女の愛撫を受け、首をもたげていた性器もおとなしくなり、彼女は手の中でその異変に気づいたようだった。
「元気なくなっちゃったね」
彼女は気まずい空気にそぐわない明るい声でいった。その声は沈鬱とした室内において、それだけ切り取られたように、不自然な明るさをはらんでいた。
「ごめん」
やっとの思いでことばに出す。
「気にしないで」
彼女は優しくいう。
後悔が閃光のように走る。
お互い黙り込んでしまったことが、その場の空気をより一層重苦しくしていた。
「帰る?」
やがて彼女が口を開いた。
俺は泣き出しそうなのを堪え、そうだね、と答えた。
しばらくすると、彼女はジャケットを着直し、立ち上がって服装を整えた。
俺はソファに座ったまま、立ち上がれなかった。顔を上げると、髪の毛を指で梳いている彼女の後ろ姿があった。歯を食いしばってないと、涙がこぼれ落ちそうだった。
「今日はありがと。ほんとに会えてうれしかった」
桜ちゃんは平然といった。そして立ち去ると、ドアの前でもういっかい振り向いて、またね、と手を振った。
俺は帰りの電車で呆然としていた。うまく思考を働かすことができなかった。俺の頭の中を占めているのは、自分に対する嫌悪感だった。自分の今いる日常を壊そうとしたができなかったこと、そしてなにより、そのことに桜ちゃんを巻き込んだことに対する。吐き気がするほどの自己嫌悪が俺を襲っていた。
俺は存在しない方がいい人間ではないかと、よほど消えてなくなりたかった。家に帰るまでに消滅すればいいと願ったが、もちろんそんなことはなく、やりきれない思いを抱いたまま由希子の待つ家に到着した。
普段とは少し変わった俺を由希子は敏感に感じとっていたのだろう。しかし、由希子は追及してくることはなかった。たわいのない会話を投げかけ、テレビに目を向けて笑いを誘ってきた。しかし、俺はそのどれにも反応をせず、無関心でいた。
同棲というのは望むと望まぬと限らず、お互いの行動を監視し合う結果になる。
俺が夜遅く帰宅したことも、帰ってくるなりなにも話さず沈鬱な面持ちでいることも、彼女に気になる要素を与えているだろう。
しかし、由希子は気にしない素振りをし、いつもと変わりなく接してきた。その平然さが恐く、俺は黙っていることができなくなかった。
テレビの笑い声に便乗して、相変わらず笑いながら話している由希子の横で、俺は口を開いた。「女の子に会ってきた」
由希子は俺が話し始めるのを待っていたかのように、急に喋るのをやめ、居住まいを正した。「浮気しようとした」
由希子はどこかし覚悟をしていたのだろう、特に驚くこともなく、俺の話の続きを待った。
しかし、俺がそれっきり黙っていると、しびれを切らしたように由希子はいった。
「なんで?」
俺はなんだか寒気を感じていた。体の中から震えが起こっているようだった。由希子ではない誰かに、攻められている気がした。
「結婚、嫌になっちゃった?」
それになにも返答することができなかった。上手く言い表せる言葉が浮かんでこなかったのだ。叱られている子供のように、体を縮込ませて泣くのを堪えていた。
「ねえ、なんかいってよ」
由希子は少し怒った口調になる。
「彼女は初恋の人だった」
しばらくして、俺はいう。思いの外、母が震えている。
「小学校のときにつき合ってる子だった。彼女と食事をして、ホテルに行った」
由希子は、はっとした表情をした。いつか俺が話した初恋のことを思い出したようだった。
少しの間のあと、由希子は眉間に皺を寄せ、どうしてそんなことするの? と訊いてきた。ある程度の覚悟があったとしても、それは確実に由希子を傷づけているだろうことが分かった。
「でも、」
俺はことばを詰まらせながらいう。
「でも、罪悪感が生まれてできなかったんだ」
由希子は取り乱すことなく、じっと俺のいうことを聞いていた。
あれは声を震わせながら、続けた。
「それは由希子への罪悪感ではなくて、桜ちゃんへの罪悪感だったんだ」
由希子は怒るでもなく、泣き出すでもなく、なにもいわなかった。ただ、その顔には憐みの表情が浮かんでいるように見えた。テレビからは相変わらず、今の俺と由希子には無関係な笑い声が聞こえてくる。
堪えていた涙が溢れだした。一度涙を流すと堰を切ったように溢れだし、もう止めることはできなかった。由希子の前で泣きじゃくった。由希子がなにを考えているか分からない。でも、泣かないわけにはいかなかった。激しい運動をしたあとのように、体は熱を持ち、呼吸は苦しかった。
あのとき俺は、泣くべきだったのだ。
自分に、そして彼女に素直になるべきだったのだ。流すべき涙を、十六年越しに流しているかのように俺は由希子の目も憚らず、子どものように泣きつづけた。
(了)