寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか
以前どこかで聞いた情報で詳細は怪しいけれど、他国の人に比べて日本人が最も他者への寛容がない国民性があるという。そう指摘されると、確かにそのように感じる。例えば他人のミスに関しては必要以上に叱責するし、自分の主張や信条と合わない他人への攻撃は限度を知らない。私も実生活で、はたまた、ネット上でそのような場面をよく見かける気がする。
他者への寛容心を育むにはどうすればいいのか。真っ当な正解というものを私は知らないので、私なりのひどく消極的な考えを言うと、他者に期待しないということだと思っている。
まずもって人間は百パーセント失敗をする。そんなことは、自身の過去を振り返れば自明だ。そんな完璧でない人間共が自分だけは棚に上げて他者の失敗に対して烈火のごとく怒るのはそもそもおかしいわけで、それでも他人の失敗に対して寛容でないというのであれば、自分が失敗した際にはそれ相応の報いを受けるべきであるし、そのようなルールを厳命に自ら課すべきである。
また、失敗をする生き物ということは、どこか「欠けている部分」があるということで、それがどの部分なのかは人によって異なるが、つまり、多種多様の人間が生きている場所ということは、それだけ数多くの主張や信条も存在するわけで、それが自分の信じているものと同様である可能性は低い。それなのに何故他人に対して厳しくなるのかというと、他者を自分の想像内、想定内の範囲に取りこめているからで、それを言葉で表すと我儘であり傲慢である。
これらの考えは本来別の主義・思考で行動している他者も自分の想定通りに動いて欲しいと思う期待が込められている。なので、その期待が外れるとひどく落胆するし苛立ちを覚える。その期待が大きければ大きいほど怒りも増幅する。
実際に生きていれば自分の思い通りにならないことばかりだと自然と気付いていくものだ。それでも、自分の主張を貫き、他者を自分の思い通りに支配したいというならば実際にやってみればいい。結果は他者に不寛容である自身が、それ以上の不寛容である他者にぶち当たるだけのことだと思う。結局、誰もがある程度他者に寛容でないと、身動きが取れない程に息苦しい世界になってしまい、こんな世界で生きることが酷く困難なことに思えてしまう。
上記に「他者に期待しないこと」と書いたが、正確には「期待しない」の前に「良くも悪くも」という言葉が入る。他人は自分の想像を超えて予想を裏切る生き物であると思っていれば、そこに水準を合わせていれば、良くも悪くも、この世界はすごく面白い世界だと映るだろう。そして、そう思う心は「寛容」とも例えられて、欲望が渦を巻く現実社会で生きぬいていく最も必要な態度だと思っている。
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