のびていく白く高くきよらかなるたましいは
確か以前の投稿にも書いたことがあった気がするけど、「陶片追放」という制度が古代ギリシャにあって、これは、集落や集団の君主を決める際に、得票を多く獲得した人を代表に選ぶのではなく、君主にはしたくないと考える人に得票し、その人を集落や集団から追放する制度で、投票に陶器の破片を用いたことから、「陶片追放」(オストラキスモス)という。
これは、代表を一人選出する際、代表に相応しい人なって欲しいとポジティブな感情で投票するよりも、こいつだけには代表にしたくないとネガティブな感情で投票する方が、人間の本能に適している。と、以前の投稿で書いた気がする。
この考えをさらに促進させると、多くの人間、つまり、大衆が一人の人間を評価する時、その人に対するポジティブな解釈よりもネガティブな解釈の方が、周囲に伝播しやすく、信じ込むところがあると思っている。つまり、人の評価は、良い評価よりも、悪い評価の方が、何故か信用度が高いと思ってしまい、その悪評も広く浸透しやすい。その時、情報の信憑性を自分の頭で考えようとも自分の手で探ろうともせずに、大多数を占める意見に真実があると思い込んで、盲目的に信じてしまう時がある。
哲学者のホセ・オルテガ・イ・ガセットは、「人間は、一人一人は賢者なのに、大衆になると愚衆になる」(意訳)と著書の中で書いていた記憶がある。私はこの考えが正しいと思っていて、さらにこの意見を補足すると、自分の頭で考えることができずに大衆に扇動されて、他人の意見に自分自身の行動をゆだねて意思決定する人が愚者であり、自分の頭で思考し、その考えに則って責任を持って行動できる人が賢者であるのだと、思っている。
最近は、一個人が意見を発信するツールがそこらじゅうに溢れていて、ここのnoteもその一つだと思う。一人一人が自分の頭で考えていることは、オルテガの言うように賢者の意見だと思うし、正否を超越して価値のあるものだと思う。(正しい正しくないはその人の立場や視点によって変わる。)
逆に言えば、他人の考えが簡単にわかる時代で、己の考えを信じ、発信する行為は、どこか不安で心細い気持ちになるが、とても意味のあることだと私は思っている。
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