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愛は惜しみなく奪う

有島武郎の「愛」に関する思想が綴られた著書に『惜しみなく愛は奪う』がある。トルストイは「愛は惜しみなく与える」といったが、有島武郎は「愛の本質は奪うもの」であると主張する。作中でもカナリヤの例を出して、著者がカナリヤに美しい籠と新鮮な餌と時に愛撫をしてやる光景は、一見「愛を与えている」ように見える。しかしそれは外見上だけのことで「愛したい」という自分自身の欲求を満たすだけの「奪う行為」だと定義している。要は、愛が結局は「自己愛」に帰結しているということを著者は述べていて、私も「愛」というものは「自己愛」と切り離せないものだと思っている。

よく熱烈に愛しあっている恋人同士を「二人だけの世界」というように、愛し合う二人はまるで自分と相手だけしかこの世に存在していないかのように視野が狭くなる。特定の誰かを愛するということは、逆に、その他の人間と差をつけるということになり、愛する対象以外の人間への愛情は相対的に低くなってしまう。そして、有島武郎の説によれば、「愛」は「自己愛」に帰結しているので、相手を愛すれば愛するほどそれは自分自身を愛していることになり、つまり、突き詰めていくと「愛」というものは究極のエゴイズムとも捉えられる。しかし、この「愛」がエゴイズムであるという定義は、世の中ではなかなか浸透していない気もする。
私の偏見かもしれないが、世の中では「愛」というものは、相手を慮る清く誠実で尊いものとして語られるし、あくまでも相手の為に施す行為だというムードがある。「無償の愛」という言葉のように、「愛≒無償の愛」と同義で使われているような気もしている。とても「自己愛」のような自分本位で汚いもののように扱われてはいない。

ふと世の中を見渡してみると、世の中には「愛」で溢れているように喧伝されている。実際に恋人と手をつないで街を歩くカップルは幸せそうに見えるし、日曜日に公園で遊ぶ親子やキャッチボールをする友達同士、お互いに助け合い仕事をこなす労働者の姿も正しい愛情で包まれているように見える。しかし、その尊い愛というものは、そのコミュニティ内に所属している人の間だけで循環しているものともいえる。そこと関係性が無い人へは途端に無関心になり、そのコミュニティ内で存在しているはずの愛の恩恵はまるで受けられない。
なぜそうなのかというと、一言で言えば関係が無いからだ。自分と関係がある人には優しくなれるが、関係のない人にはとことん無関心になる。みんな関係無い人までに構っているまでの余裕はないのだと思う。誰しもがとは言えないが、そういう人がなんとなく多いような気がしている。(偉そうに語っている私自身もそのような人間である。)そして、一般的には恋人同士や親子や友達や仕事仲間で育まれる「愛」というものは「正しい」といえる。実際にそれを間違っていると指摘できるほどの根拠はない。しかし、「正しい」からこそ、そこから外れてしまった悲しみは強い。その「正しさ」から外れた自分というものはまるで間違っている存在かのように思えてしまう。「正しさ」に追い詰められてしまう。

「愛」はエゴイズムの極致である。私はそう思っているし、現代の世の中で定義されている「愛」というものと違って、「愛」とは「自己愛」に帰結していると皆も少なからず自覚的になって欲しいとも思うが、しかし、「愛する」ことを悪いと言っているわけではない。相手を愛することでなにより自分自身が満たされて救われるのであれば、それは大事なことだと思っている。

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