アンチ・ストーリーテリング

映画は元々観ない。一度勇気を出して何かのサブスクリプションサービスで、何かの軽い映画(コメディだったと思う)の再生ボタンを押したが、読み込み中の暗闇が開ける前に閉じてしまった。物語が始まる瞬間に耐えられない。何年もの、幾人もの存在が織りなす、余す所のない生が数時間に凝縮された、その複合的な液体を飲み干すことに、潜在的な恐怖を感じている。

僕の信じていた物語はいつの間にかズタズタになっていた。現実をゲームのようにやりこなし、達成項目を塗りつぶしていく知り合いは、いつしか僕が眺める地平線からは姿を消してしまった。憧れの大人たちは、星を数えているうちに、無限の宇宙に広がる暗闇に魅入られてしまって、ありもしない点を線につなげるようになっていった。それぞれの人々の胸には、それぞれ偉大な物語が眠っていた。

僕が若い頃には、「レールが敷かれた人生」と言うメタファーが流行り、その後に続く言葉は「そんなのは嫌だ」しかなかった。今の時代ほど、レールを渇望する時代はない。誰だって、あらゆる方向にひしゃげたトロッコをうまく運んでくれる、おあつらえ向きのレールを求めている。誰だって、今生きている自分を余すことなく肯定してくれるような、嘘くさい物語を探している。

僕も10年前は、自分にぴったりの物語を探していた。そして、物語のことを過大評価していた。『透明な語り部』などという作品集を出して、何かを語っている気にすらなっていた。説明ができない出来事なんてないし、人間は、その出来事を積み重ねて乱反射していく存在だと信じていた。だから自分は、何かがずっと作りたくて、それが音楽となって発現した時、きっとそれは我が使命なのだと信じて作り続けた。積み重なることで何かが輝き出すことを信じていた。

しかし、物語は進めれば進めるほど、自他を蝕んでいく。精巧に切り詰めたルールほど、現実の多様さに敵わなくなっていく。あの日聞こえた精霊の呼び声は、ただの呪いだったことに気づく。そしてこのまま、物語をグレードアップしていくことにいつしか疲れてしまい、誰のことも救うことはできないまま、孤独が再帰する死へと突き進んでいく。

だからせめて今は、再生ボタンを押したくはない。そして、あらゆる選択肢を幻視して、ルートを紡ぎ出そうともしたくない。フラグなんてものは初めからない。そこにあるのは存在と非存在の営みと、その短期的な結果だけ。あらゆるフレーズに意味はない。あらゆるマーケティングにあなたは含まれていない。

ここで中学生からよく聴いていたフィッシュマンズがフラッシュバック。なんだ、最初からここに向かっていたのか、また一つの分岐点を幻視する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?