これから自分の『おはなし』を書こうと思ったおはなし
小さい頃『ピーターラビットのおはなし』シリーズが好きだった。
と、この記事のタイトルを考えていて末尾に自然と『おはなし』というワードを打っていて、「なんでじゃろ?」と自問自答して思い出した。
ピーターラビットシリーズには全部『○○のおはなし』というタイトルがついていて、さてさて、今日はなんの『おはなし』を読もうかな、と夜な夜な寝る前の相棒を探したものだ。
ピーターラビットシリーズでは、ピーターラビットの世界の住人たちのとある1日のできごとが『おはなし』として切り取られて絵本になっていて、
それは想像の世界から生まれたおはなしなのだけれど、
私たちの日常だって日常から切り出して語れば『○○のおはなし』だ。
『おはなし』というワードには、それがとある場面を切り取られて加工されて誰かに伝えられる創作物である(中身自体が想像のものか、現実のものかは問わず)という意味合いが感じられるのとともに、そこに多少の滑稽さも含むと感じさせてくれる(ように私は感じる)。
それがいい。
自分の感じたことや日常をそのまま垂れ流すのは、なんかちょっと気恥ずかしいけど、『おはなし』として括ることで、読み物として成立するものにしようという意識が芽生えそうなのと、
自らの過去の場面場面の切実さや感情を、「そんなこともあったんだってさ」というように自嘲気味に客観視して振り返ってみることによって、そのまま垂れ流す気恥ずかしさから逃げられる感じがする。
なので、『おはなし』。
(小説とか物語を書いていくわけではなく、あくまでも書く内容は自分の身の回りに起こった出来事や、そこから得た気付きに関してです)
これから私が『おはなし』を書き綴るのは完全に自分のためである。
わたしは知的好奇心が強いと自覚がある、興味をもったことに対するインプットを重ねることで、「あーーーなるほどーーー」と自分の世界が広がっていく感覚が得られるのが大好きで、それについては貪欲に得ていたし、それに満足していた。
でも、自分の中に入れて、咀嚼して、出すという生物としての基本をやらないと、結局何にも還元できないのでは、入れただけでそれが何物にもなってないのでは、という疑問は以前から実はあって、
「気付いてるならちゃんとやろう」
と思い立ち、アカウントだけは作りつつ放置していたnoteに初めて筆を入れた。
(真っ白な紙を墨でよごした感覚があるのでこの表現)
インプットは自然とできるけれど、こうやって書くことは、意識しないと自分の行動にあらわれてこない。なので、ちゃんと思い立って続けられるだろうか、という不安はありつつ、
「これは自分にとっての気付きだ!!!!」と心が揺さぶられた経験があったら、ここに『おはなし』として記して、その経験を客観的に眺めていきたいと思う。
どれだけこのまっしろなページを汚していけるか。自分自身へのチャレンジである。
読んでくださる人がいたら、
読んでいて共鳴した部分や、逆に違うな、と思ったことがあったら教えて欲しい。それはきっとお互いにとっての血肉になっていくと思うので。