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安全・安心より信頼を

コロナ禍2年目。”緊急事態宣言”とか”なんたら措置”とかの真っただ中で、”安全・安心”ということばが世間で踊っている。

首相はオリンピックについて何を尋ねられても「対策を徹底することで国民の命や健康を守り、安全・安心の大会を実現することは可能だと考えており・・・」と、シングルタスクの昔のおしゃべり人形のような繰り返しを連発。もはや、自分にとってオリンピックはどうでもいい気分だけど、生きる糧の多くを奪われながらも、多くのお店やお宿の皆さんが”安全・安心”を訴えている姿は悲痛…。

安全・安心の農園?

私の農園は化学農薬・化学肥料不使用を旨に営んでいることもあってお客さんからよく「安全・安心ね!」と言ってもらえるんだけど、内心ではちょっと違うんだな~、というのもある。

実は農薬を使っていないからって、野菜の安全性が高いとは必ずしも言えない。というのは野菜中の有害成分のうちたとえば発がん物質の強さは一般的な農薬残留分よりも野菜に本来含まれる天然成分の方が多かったりする。野菜だって本来は食べられたくないので、防御機能を身につけているわけ。

すべての事物についてよい面・悪い面はあるわけで、野菜は毒成分の害毒よりも栄養成分の便益の方がはるかに高いからこそ食べものたりえる。それどころか、春のフキノトウのピリッと苦いアルカロイドのような微量な毒成分が免疫力・解毒力のスイッチをいれる、という話もあるわけだから「毒ですけど、それが何か?」とか言いたくなったりもするんだ。

じゃあ、なぜウチは化学農薬・化学肥料を使わないのか。

とある会社の依頼で試験区をつくり、そこに化学肥料をまいたところ、土壌生物多様性の指標が驚くほど単純化したことがあった。つまり農薬を含めそれらの資材は畑の生物相を単純化させて、野菜の品質や環境に悪影響を及ぼす可能性が高いと考えているからなんだ。

で、”安全・安心”ということばについては、「安心したら安全じゃないだろう?」というツッコミがある。事実としてはその通りすぎていて、多くの人はそんなことは重々わかっているハズだ。”安心してボ~っと生きて”いたらふつうチコちゃんに叱られちゃうんだから。

必要以上に悪名高い化学物質であるD.D.T.をもじって、私は食べ物をD・D・Tで選ぶことをおススメしている。Delicious(おいしい)、Diversity(多様)ときて最後は生産者や流通へのTrust(信頼)の3つ。そこに”安全・安心”はない。

考えてみるに、私に”安全・安心”といってくれたお客さんは、実際には私を”信頼”してくれようとしているのかもしれない。つまり「ま、さすがにウソいってる可能性低いだろから一応信頼してみることにする」くらいの意味合いで言ってくださっているのではないだろうか。少なくともウチの野菜を台所でやっつける場合に、虫がはいっていないか、腐ってないか、その他へんな兆候はないかぐらいはチェックするはずだよね。

理想世界のコトバ

さて、”安全・安心”という言葉は、それに関わる事物を提供する立場から発するとすれば、本来かなりリスクがあるはず。少なくとも安全性確保については、どこに危険があるのかということを合理的に分析し、危険防止の対策を講じることが必要になる。

農業分野ではそのシステムを経営内に構築し、運用できているかどうかを審査する認証規格がGAP(ギャップ)といわれている。工業・建設系では同じような品質管理や環境保全のためのISO規格というのがあって、私がサラリーマンだった20年以上前から導入が進んでいた。

だけどそんな規格認証をうけてもヒトがやる以上完璧はあり得ないわけで、下請け業者の手抜きを見抜けずに、上っていた階段が落ちて命を落とすとか、ピカピカの認証食品工場でつくられた食べ物に異物や想定外の毒物が混入していたりなんてこともありうるわけ。

だから、本当は提供する側が「安全・安心です💛」なんて言っちゃマズイ、のだと思う。”安全・安心”はあくまで、空気抵抗や摩擦を無視した理想世界を語るような文脈でのみ使えるコトバだ。私たちが本来やるべきことは、受け手の信頼をいただくべく、具体的なことを積み上げることでしかない。語るとすれば、理想論の決まり文句ではなく、作り手の思想や具体的な方法でしかないんじゃなかろうか。

かつて原発事故で、放射能からの”安全・安心”が叫ばれていた時、地元・群馬のように、福島から比較的距離があるもののそれなりの影響を受けてるような、いないようなところでも、それまで"安全・安心"を売り文句として連発していた農家はその言葉を失っていた。しかし、残念なことに彼らの多くは”不安”の種となった身近にあるかもしれない放射能を見て見ぬふりをして、”信頼”を得ようとする努力を怠ってしまっていた。

そのことは今、”安全・安心”が叫ばれる裏で、疲弊したり、困窮したりしている多くの人を見て見ぬふりをしている社会と重なってしまう。本来、コロナを見るよりもっとヒトをみることが必要のように私には思える。安全・安心推進の陰で、抑制され、管理され、あるいは外されてしまった人々のことを。

不安の時代

現代は不安感の強い時代だともいわれる。しょっちゅう安全・安心が叫ばれるのはその裏返しかもしれない。

私たちは野生の世界のなかに、道路や建物や疑似自然などの人工物だけからなる世界をつくって生活しているのは、もともと野生の世界は不安だらけの世界だったからで、そのココロは不安の芽を予め摘みとることだ。

そこは基本的にヒトの意志を具体化したいわば”意志的世界”だ。道路はヒトが移動するためのものであって、それをふさぐ岩があってはならないし、建物はヒトが活動したり休息したりする場であって、クマやイノシシが暮らす場所ではない。もし、そんなことが放置されるとしたら、管理者はひどく糾弾されることだろう。
そして意志的世界の構成要素は建造物だけではなく、たぶん社会的規範を含む文化や社会システムを含む。

その中で、台風や地震や津波、新型疫病といった災害に時々は見舞われることはあるものの、私たちは野生の世界の物理的な不安から逃れることにある程度は成功した。しかし、ヒトと野生は食物連鎖を含む物質やエネルギーの循環の中で切っても切れない関係であって、ヒトそのものは進化の歴史を経て微生物からサバンナの動物に至る生き物たちと無関係ではないのだから、それから本質的に離れることはできない。だから不安は決してなくならない。また、文化や社会システムの側の軋みも昨今は大きくなってきていて、それらも私たちに消せない不安感を増大させている面があるのだろうと思う。

継続する不安への手っ取り早い対処法のひとつは、不安の原因をわかりやすい対象にかぶせ、それを外部化することだ。つまり、悪をたくらむ独裁国、ずるがしこい外国人、金儲けをたくらんでいる既得権益集団を外部化して名指しし、攻撃する。そんなふうに石を投げ続けている間は不安をしばし忘れられる。しかし、その方法では渦巻く不安はいつまでたっても手なずけられない。だから攻撃はどんどんエスカレートしていく。

そして、コロナ禍の今、私たちは本来はありえない”安全・安心”があたかも実在するように叫び、ともすればどこかに攻撃をしてしまう。だが、それはあくまで架空のものだからして、本気で求め続けるとすればするほど、決して手には入らない。だから、それが手に入らないことによる”不安”はいつまでも消えず、これは時を経るごとに増大していってしまう。

理想的に行けば、ワクチンの普及で不安が収まる(忘れる)可能性はある。でも、変異とワクチンのイタチごっこになった場合は、ひょっとすれば"不安"は通奏低音のように社会にはびこることになるかもしれない。そして、そこで奏でられる大小さまざまな"攻撃"によって、ディストピアのような管理社会に向かっていくことがこわい。

意志を超えるもの

森に出かけることのよさのひとつは、ヒトの”意志”とは無関係な事物にたくさんふれることができること。窮屈な"意志"とは無縁のモノやコトにあふれかえっている世界は、人工世界というアワの中にはない豊かさがある。そこで思い知るのは私たちの”意志”のちっぽけさなのかもしれない。


古代ギリシャでは、”意志”という概念がなかったという。石像はヒトがつくったものではなく、石のなかにもともと存在していたものを、神からのメッセージによってヒトが具現化したもの、と捉えられていたらしい。また、小説家の磯崎憲一郎さんはこう力説する。「作品って普通、作者がつくると思ってるでしょ?でも実は小説なんて作者が書いてるわけじゃないですからね。一文一文は作者が考えていることが書けるのかもしれないけど、原稿用紙で百枚とか千枚とか書いているうちに意志を越えたもの、違ったものが現れてしまうのが、小説っていうか芸術だと思うんですよね!」
東京工業大学 研究院公開2020 未来の人類研究センター「コロナと利他」


想えば、自分のところのような小さな農業も意志を超えた部分を多く受け取る営みだ。それは、かよわい”意志”なんてものを持つ私たちに災厄だけでなく幸福をもたらすこともある。どっちに転ぶか、は想定外をどこまで受け取れるか、という自身の度量に掛かっているんじゃないかな。

ヒトの”意志的世界”もコロナという想定外が訪れれば、農業と同じようにヒトは翻弄されて当然だよね。
"安全・安心"が本来あり得ない以上、それをもたらすコロナへの正しい対処法なんてものもあり得ない。
でも”不安”への対処法はある。それはきっと”今を生きる自分自身”と、”自分たちに連なる他者”への信頼を育むことだ。しかしそこでも本質的な不安はなくならない。なぜなら野生に不安はつきもの、かわるのは不安の”色”のようなものだ。


まだ見たことはないんだけど、”星の子”という映画が昨年公開された。たぶん“信頼”のようなものがテーマなのだろう、この映画の主演を務めた芦田愛奈さんは公開時に「信じるということについて答えみたいなものは見つかりましたか?」と問われてこう答えている。


「”その人のことを信じようと思います"っていう言葉って、けっこう使うと思うんですけど、それってどういう意味なのかな、と考えた時に、なんかこう、その人自身を信じているのではなくて、自分が理想とするその人の人物像に期待してしまっていることなのかな、って感じて。だから"裏切られた"とか"期待していたのに"という言葉がでてくるけれど、別にそれは裏切られたとかそういうわけではなくて、きっとその人の見えなかった部分が見えただけであって、その側面がみえたときに、あ、それもその人なんだ、って受け止められるっていうか、受け止められる揺るがない自分がいることが"信じる"ということなのかな、って思ったんです。」


つまり”信頼”とは相手が自分の”意志”とは別物であることを受け入れる、ということだといっているわけ。私は16歳の俳優さんから出たこの言葉に心底驚愕し、いいおっさんがちゃんと意識できてなかったことに気づかされた思いだった。そして思う、信頼はまず、自分自身に対してこそ必要だ。自分の"意思"さえ、本当のところは解らないもの。そして"意志"がどうあろうと、そもそもどっちに転んでいくかわからない代物であることは、自分も他人も同じなのだから。

安全・安心は求めても手に入らない。不安を受け入れ、共に暮らしていくには、今を生きる自分や近しい他人への信頼を育てることが大切なのではないだろうか。
そして信頼の基盤は相手ではなく、自身の中に作るもの。敵はコロナではなく、やっぱり自身なのだろう。

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