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幻聴 第4章 進展
駅の改札口から出てくるたくさんの人たちの中からでも、朝子はすぐに見つかった。多くの通行人が朝子とすれ違った後、振り向いて朝子の顔を再確認した。朝子にはそれだけのオーラがあった。幹生はそんな朝子と二人だけで食事できるのを誇りに思った。
「お待たせしました。今日は同伴していただいて、ありがとうございます」
幹生はネットで銀座の中でも庶民的料金の寿司屋を予約していた。それでも幹生にとっては大きな負担だった。
「あまり無理しなくてもいいのよ。今度は相沢さんがいつも行っているところに行きたいな」
「僕がいつも行っている店なんかに、朝子さんを連れていくわけにはいきませんよ。だって、居酒屋とか焼き鳥屋とかラーメン屋、そんなところばかりですから」
「こんなこと言ったからって、お高く止まっていると思わないでほしいけど、私、そういうお店にあまり行けないの。お客さまに見られると夢を壊してしまいそうで。本当は焼き鳥もラーメンも大好きなんだけど」
「へえ、朝子さんには朝子さんなりの苦労があるんですね。じゃあ、今度は焼き鳥屋に誘います」
「本当に? 嬉しい」
朝子はお店では見せない素の自分を見せてくれている。遠い世界の人だった朝子の存在が、とても身近に感じられた。
「こういう商売をしていると、有名企業のお偉いさんだとか、芸能人、スポーツ選手だとか口説いてくる人がたくさんいるの。ああいう人たちは金で女を買えると思っているのね」
朝子は幹生のグラスにビールを継ぎ足しながら言った。
「私はそんな男の誘いには絶対に乗らないの。男ってバカだから、征服できない女を見るとプライドが傷つけられる。そうすると、自分のプライドを守るためにさらにお金を使ってくれる。だからお店の売上はトップクラスになるの。誰とでも寝る女は、そのときはいいかもしれないけど、結局飽きられて捨てられるだけ」
「男にも女にもバカな奴っているんだね」
「そう、そのとおり。だから相沢さんみたいに、自分でコツコツ働いて稼いだお金を使って、月に一度でもいいから私に会いに来てくれる人がいるのが、私にはすごく嬉しいの」
「僕だって、本当は毎日でも朝子さんに会いに行きたいんだけど。なんせ給料が安いものだから、なかなかそういうわけにはいかないんだ」
「この世界にいると、そういう人のほうが格好よく見えるわ。この人は私のことそんなに思ってくれてるんだってわかるから。そうだ、私の本名を教えておくわ。私、お客様には本名を教えないことにしているんだけど、相沢さんならいいわ」
朝子はバッグから名刺を取り出して、裏に『仲雅子』と書いて、幹生に差し出した。
「高柳朝子っていう名前もいい名前だけど、仲雅子も女優さんみたいで素敵な名前ですね」
「ありがとうございます。自分ではなんだかおばさんみたいな名前で、あまり気に入ってはいないんですけど」
「そんなことないですよ。あなたにはピッタリだと思います」
「そんなこと言われたこともないから、すごく嬉しい」
真弓に対して不満はなかった。しかし、幹生は雅子と会わないではいられなくなっていた。仕事に疲れたときやストレスが溜まったとき、麻薬に取りつかれたように幹生は雅子に連絡を取り、同伴する約束をした。
幹生には雅子が自分をただのお客ではなく、一人の男として見てくれているように感じられてきた。雅子は自分に好意を持っている。いや、好意以上のものを持っている。そう感じるようになったのは、お店の終了後に二人でアフターに行くようになってからだった。
お店が終わって、深夜の銀座を歩いたとき、雅子が自分の腕に手を回してもたれかかってきた。雅子の横顔は初めて会ったときよりもきれいになった。女性は恋するときれいになると言う。雅子は自分に恋している。幹生はそう確信していた。
「今夜はずっと雅子といたい」
幹生が言うと、雅子は
「私の部屋に来る?」
と幹生の目を下から見上げて言った。
その日、初めて二人は体を重ねた。
それからはお店に行く日は雅子の部屋に泊まった。いつからかお店が休みの日にも会うようになった。妻の真弓には休日出勤だと嘘をついた。真弓は疑う素振りも見せなかった。
雅子は話上手で愛嬌もあり、二人でいるときの幹生はいつも笑顔でいられた。それに引きかえ、真弓はどこか暗くて、一緒にいても気が重くなる。雅子の長所に目がいくその分、真弓の短所ばかりが目につくようになった。幹生にとって、真弓は面白味のない女だった。
「妻とはもともとうまくいってなかったんだ。妻とは別れるから、僕と結婚してくれないか?」
幹生の言葉を雅子は信じた。
しばらくして、雅子は体に異変を感じて、産婦人科を訪れた。妊娠3か月と診断が下りた。雅子はすぐに幹生にそれを伝えた。幹生の喜ぶ声が電話の向こうから届いた。幹生は次の日曜日に妻に別れを切り出すと答えた。日曜日の夜、雅子のメールに妻が別れることを承諾したという連絡が幹生から入った。幹生と新しい命との三人の生活が現実になる、そう思うと雅子の瞳からは自然と涙がこぼれた。
<続く>