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名画『モナ・リザ』に“神の子羊”と“天使の翼”を見た経緯と考察 #12
#12 愛の元資
ほとんどの人がその心の中に“男性的要素”と“女性的要素”をもっているとするなら、それらは一体なんのためにあるのでしょうか?
この疑問は当然に生じるものだと思います。実のところ、私にもよくわかりません。けれども、『モナ・リザ』を見ていて思うことが一つだけあります。というか、今の私にはそれしか思い浮かびません。
それとはつまり、“愛の元資”です。“男性的要素”と“女性的要素”というのは、愛の元になるものだと思います。
“男性的要素”と“女性的要素”という2つの異なる要素があるからこそ、私たちの心は自ら愛を生みだすことができるし、他の人からの愛を享受することもできるのです。受け取った愛は、“男性的要素”と“女性的要素”のそれぞれに振り分けられ、そしてそれらをさらに強くするのではないでしょうか(図43参照)。
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さらに、私たち人間は、自分の2つの要素を使って愛を生み出して、自分自身や他の人に与えることができます。さらに、自分の要素と他の人の要素とをお互いに組み合わせることで愛を育むこともできるし、そうして生み出された愛を互いに分かち合って、また他の人にあたえることもできます(図44参照)。
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私たち人間は、自分を含むすべての人々を愛し、その愛を共有して循環させることができる。ホモ・サピエンスは、そういうことのできる種族なのかもしれません(図45参照)。
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『モナ・リザ』の背景、つまりレオナルドの“理想郷”には、水と空の大気がとても印象的に描かれているように私には思えます。水は雲となり、雨となって大地に降り注ぎ、川を下って海へと流れ、そしてまた雲になる。そうして世界中を循環するものです。もちろん大気も同じで世界中をくまなく巡るものです。レオナルドは、人間の愛情も、水や大気と同じように、人類全体をくまなく循環してゆくものと考えていたのではないでしょうか。
もちろん、私は、レオナルドがそういう風に考えていたことを証明するものを何一つもっていないですし、あくまで私個人の解釈にすぎません。ただ、そうした愛に関する私の考えはともかくとして、人間が男性的要素と女性的要素の二つをもつということは、『モナ・リザ』によってすでに証明されているように思います。
というのは、『モナ・リザ』は、500年以上にもわたって今もなお多くの人々に受け入れられています。それも最高傑作と称されるほどに非常に高い評価を受けながら。もし仮に、世の中の人間の大半が、男性的要素と女性的要素のうちのいずれか一方だけしかもっていないとしたら、おそらくそういうことにはなっていないと思うのです。
男性的要素と女性的要素のうちのいずれか一方だけしかもっていない人たちが、あの絵から感じ取れることはせいぜい半分程度だと思います。そういう人たちにとっては、なんだかよく分からない違和感のある“変な絵”か、もしくは、よくある“普通の絵”ぐらいにしかみえないかもしれません。この絵は、人間の本質をとらえているものだからこそ、いくつもの時代を超えて、多くの人々に愛されてきたのだと思います。
また、話は変わりますが、こんな風に女性と男性のモデルを融合させて人間の本質を表そうとするレオナルドによるこのような試みは、すでに別の絵でもなされていたかもしれません。
他の絵とは、『最後の晩餐』です(図46参照)。
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さきほど私は、この絵のイエス・キリストの右隣にすわっている人物が“聖母マリア”かもしれないと言いました(図47参照)。
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そして、イエス・キリストと聖母マリアとの間の少し空きすぎている部分(V字空間)に注目してもらいたいのです。ここのV字空間については、さきほど使途ヨハネのところで説明した通り、イエス・キリストが“自分を裏切る者が現れる”と言った直前まで、そこに使途ヨハネがいたことを示すものだと思います。しかし、それだけではなく、このV字空間にはもう一つの意味があると思うのです。
私は、この部分には、背後の柱の部分を含めて“大きな矢印”が描いてあると考えました(図48参照)。
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つまり、柱と窓枠の下の部分とを合わせると“下向きの大きな矢印”にみえます。これはどういうことかというと、この矢印の先の部分をよく見なさいというメッセージじゃないかと思ったのです。
矢印の先の部分をじっと見続けると、焦点がぼやけてきます。そして、『聖母マリア』と『イエス・キリスト』の姿が重なり、聖母マリアが、その右手をイエス・キリストの右肩に載せて、イエス・キリストの背後から優しく寄り添っているように見えます(図49、図50参照)。
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つまりレオナルドは、このような視覚的な効果、即ち、両眼視の機能を使って、男女のモデルを融合させること意図していたのではないでしょうか。ただ、この絵は壁画として描かれたもので実際にはどう見えるのか私には分からないですし、右手に見えるその手は実際には左手ですので、正直、かなり強引な解釈だとも思います。
一方、『最後の晩餐』では敢えて男女のモデルが分離しているところを描いて、見る者に視覚的に融合させ、一方の『モナ・リザ』では敢えて男女のモデルを融合させているところを描いて、その解釈によって分離させているとすれば、そのテーマに一貫性がでてくるとも考えられます。
尚、イエス・キリストの右隣にすわっている人物が、もしイエス・キリストと並んで見えるようなのであれば、その人物は、聖母マリアとは異なる別の人物、例えばダン・ブラウン氏の小説『ダ・ヴィンチ・コード』で話題にもなった“マグダラのマリア”と解釈する方が正しいような気がします。しかし、今回のように、イエス・キリストの背後に居るように見える場合は、例えば、レオナルドが描いた『聖アンナと聖母子』(図51参照)に示されるように、その人物は“聖母マリア”と解釈する方が良いと思います。
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