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『バンビ─森の、ある一生の物語』~生きる事は理不尽であるからこそ。

小鹿のバンビは かわいいな
お花が匂う 春の朝
森の小やぶで 生まれたと
みみずくおじさん いってたよ
(中略)
小鹿のバンビは やさしいな
弱虫いじめ しないもの
今に 大きくなったなら
すてきな ぼくらの王様だ
             ~「小鹿のバンビ」作詞:坂口淳


バンビとの最初の出会いは、まだ保育園にも上がらない頃だった。

自宅にあった赤い色のレコード盤から流れ出す楽し気なメロディに合わせ、幼かった私は、母と共にその歌を何度も歌った。
生きる事の楽しさ、仲間たちを守る誇りを描いた絵本は、何度も読み返してボロボロになった。あの頃のディズニーの数少ない絵本の中で、小さな私のダントツのお気に入りがバンビだった。

可愛く、優しく、勇気ある気高いバンビ。いつかみんなを守る王様になる、バンビ。

彼は、中学生になった私の前に再び現れた。キラキラした衣装を脱ぎ捨て、身体一つで生き抜く、一匹の獣として。


バンビは、春のときめくような輝きの中、生まれたのです。

その本が並べられていたのは、図書室の南側、腰高窓の下にしつらえられた背の低い本棚の、一番下の段だった。

本を手に取ろうとすると、古い校舎の少し歪んだ窓ガラスには、中庭のすこし薄暗い桜の梢がうつっていた。
窓ガラス越しに、仲良くじゃれあう同じ年頃の子供たちを眺め降ろしながら何度も読み返したその本は、かなり古い版だったのだろう。角はすりきれ、ページは焼けて変色をしはじめていた。

バンビという名前は当時タイトルには含まれていなった気がする。
なにしろ私がこのお話がバンビの原作であると気付いたのは、二度ほど読み返したその後だったのだから。


『森の生活の物語』(当時はこんなタイトルだったと思う)は、希望に満ちた語り出しから始まる。

その小鹿は、森の茂みのなかで生まれました。
(中略)
森全体がいろんな声にみちみちていて、うれしくてたまらずにわきたっているような具合でした。
コウライウグイスはひっきりなしに喜びの声をあげ、ハトはグルルグルルと喉をならし、クロウタドリは歌をうたい……
(中略)
「バンビ」お母さんはくりかえし言いました。「わたしのかわいいバンビ」
命の誕生とは、なんと喜びに満ちたものだろう。私たちの命の誕生の瞬間も、このように祝福される瞬間だったのだろうか。

しかしその輝かしさは冒頭のほんの一節。すぐに物語の様相はがらりと変わる。

世界との初めての出会いに高揚するバンビの目の前で、野ネズミはイタチに食い殺され、カケスは巣の奪い合いをし、出会う生き物たちは勝手な言葉を一方的に語るだけ。
優しいはずのお母さんは、バンビの問いには何一つきちんと答えず、「どうしてかという事はきかないでね」と冷たく突き放す。


絵本のバンビの喜びに満ちた世界とは、真反対の世界が広がっていた。
森は争いと相互不理解に満ちていて、「あいつ」と呼ばれる生き物(人間)は、気まぐれに優しさを垂れたかと思えば、同じその手で理不尽に森の生き物を殺戮する。


生きるという事は、本来とても理不尽だ。

命の刻限を、私たちは選ぶことはできない。いつどの瞬間、どんな原因でこの命が奪われるかは分からない。豊かで実り多い季節の次には、食べる物に欠き寒さに凍える冬がやってくる。
どんなに努力したとて、その努力が実る保証はだれも与えてはくれない。なぜ、と問うたところで答えはない。それが、世界の在り方だから。


苦しい時に救いとなるのは、優しいだけの物語ではなく。

勧善懲悪のファンタジーでもなく、希望に満ちた物語でもなく、生きるという事の理不尽さと、けれど理不尽さの中にあっても首を上げて生きていくの気高さを、この物語は語り掛けている。正直、読んでいて幸せな気持ちになれる本だとは言い難い。

けれどこの厳しい森の物語を、中学時代の私は何度も手に取った。感動するわけでも、心が浮き立つわけでもないのに、半年に一度くらいの感覚で、ふと「あの本をまた読もう」と手を伸ばした。


あの頃の私。家族も先生もいじめから救ってくれず、言葉と身体的な暴力におびえていた、けれど生きるしかなかった当時の私にとって、世界が理不尽であることこそが救いだったのだと思う。


「大丈夫だよ」とか「正しい心でいれば、いつか良い事があるよ」なんて甘くて優しい言葉が一ミリも救いにならない時が、人にはある。
理不尽だろうと苦しかろうと、それでも生きていくのだと、そう突き放す事が愛である場面もあるのだ。

その分かりづらい愛情の象徴が、古老と呼ばれる一匹の老いた鹿だ。
この古老との出会いが、バンビの生きざまを決定づける。

「なぜ、呼んでおる?」その古老がきびしくたずねました。バンビは畏れ多くてふるえました。「お前の母親は、いま、おまえのめんどうをみることはできぬのだ!」古老は続けました。そのきっぱりとした口調に、バンビは打ちのめされてしまいました。同時に、なんとすばらしい声だろう、とおもいました。
「ひとりでいる事ができぬのか? 恥ずかしいぞ」

古老はバンビに多くを教えない。優しい言葉で甘やかしもせず、寄り添う事もせず、その誇り高い背中を彼に見せるだけだ。

古老はバンビをこえて遠くのほうを見ていましたが、やがてゆっくりといいました。「自分で聞く、嗅ぐ、見る。自分で習うのだ」古老は冠をいただいた頭をいっそう高くかかげました。「元気でいろ」そう、いいました。それだけでした。そして、消えていきました。
(中略)
誇らしい気持ちがバンビをみたしました。自分がおごそかな、重大なものに引き上げられたような気持でした。そうだ、生きるのはむずかしく、危険がいっぱいだ。どんなことが起こるのかわからない。けれども習うのだ。なにもかものりこえていくために。
ゆっくりと、バンビは森の奥へ入っていきました。

自分を助ける事は、自分自身にしかできない。
それは獣のみならず、人も同じ。
誰かの言葉は一時、心を満たしてくれるかもしれないが、それは本当の救いにはならないのだ。自分で自分に働きかけ、生きる道を決め、行動するしかないのだ。


こうして改めて文章にすると、この物語が、今に至る私の生き方に影響を与えている事がよく分かる。

人生の苦しみの全てを独りで乗り越えてきた、などと言うつもりはない。
直接に、間接に、沢山の人に手を差し伸べてもらい、愛情をもらい、今、私はこうして生きている。
けれど、苦しみを乗り越える最後の瞬間、自分の心の舵を切るその決断は、私が決めたのだ。生き抜こう、と決めたのは私自身なのだ。

その誇りが、生き抜くと決めたという誇りが、私を生かしている。

* * *

あれから数十年の時がたち、私はあの頃望んだ私になれただろうか。
古老のように、バンビが次の世代の子鹿たちに見せたように、自らの人生を自らの足で立ち歩く姿を娘に見せる事が出来ているだろうか。

「いまわしが向かっていくその時には、われわれの誰もがひとりなのだ。では、さらばじゃ、わしの息子よ……。わしはおまえがとても好きであった」

人生の答えは、最後の時にしかわからない。
私の愛情が、私の思う形で娘に伝わったのかも。
それでも良い、と思う。 私は私の人生を、私の足で歩いているのだから。


※こちらは旧noteからの再掲記事です※

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