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運命ってあるのだろうか。

運命ってあるのだろうか?

今週末のイベント「Buddhism x ALIFE 〜 よりよい人生を送るために」に向けた打ち合わせの場での質問です。

運命。あるかもしれないし、ないかもしれない。

疲れているとき、何もしたくないとき、年齢を感じるとき。そういうときは「あー、自分の運命はもう決まってしまっているのかな」とついつい悲観的に運命を捉えてしまいがちです。

でも、元気なとき、希望に満ちあふれているとき、明るい未来を想像できるとき。そういうときは「運命は自分で作っていくもの」と、何か「運命」に対してポジティブな感情を抱くことができます。行動を後押しする力の源のようにさえ感じます。

そう考えると、運命とは自分が「探索できる範囲」によって決まってくるものなのかもしれません。

たとえば、人やモノのつながりがつくるネットワークでこの「探索範囲」を考えてみます。つながりは誰とやりとりするか、何と出会うかでカタチづくられます。既に知っている人やモノだけとのやりとりはネットワークのカタチに変化を起こしません。

朝起きて、家族と話す、学校や仕事に行って気心がしれた人たちと交流する。新しい人とつながりをまったく持たなければ、既存のつながりを強めはするものの、ネットワークのカタチそのものは変化しません。

一方、新しい人やモノとやりとりすると新たなつながりが生まれ、ネットワークのカタチが変化します。通学や通勤の途中で席を譲るために声をかける、学校や職場でたまたますれ違った人とあいさつをする、ミーティングで新しい人と話す。迷った道でいいお店に遭遇する、反対の電車に乗ってしまって知らない駅で途中下車する、いつも会っている人がもっている知らない本。つながり方の強弱はあれネットワークは広がっていきます。

このつながりのネットワークで探索できる範囲を「運命」だと考えてみるのです。もしこれまでに既につながっている人やモノとしかやりとりしないのであれば、いずれは探索が尽きてしまいます。探索が尽きるということは「運命」も決まっているように感じるということになります。実際、いつも会う人、話す人は同じ、仕事も同じ、何かもほとんど変わることがなければ、運命はある程度決まっていってしまいそうです。

一方、新しいつながりを作っていけば、更に新しいつながりの可能性をつくります。探索のフロンティアは常に変わって広がっていくのです。つながりの中から何を選ぶかで、その先の運命も新たにつくられます。わたしはこれを「隣接可能空間の探索」と呼んでいます(わたしのnoteに何度も登場する概念です笑)。

隣接可能空間とは、近くにあるけれどまだアクセスしていない人、知識、情報の空間のことを指します。

なので、もし「あー、わたしの運命はもう決まっているのかも」と思った時は、単に隣接可能空間が広がらずに、探索空間が尽きてしまっているだけかもしれません。現在と過去を比べてみて、何も新しいことができなくなっているとしたら、環境を変えたり、つながる人を変えたり、新しい情報に触れてみたり、何か新たなフロンティアを開拓することを自分が無意識に求めているサインなのかもしれません。

自分の運命は新しい探索パスによってまた開かれる。そう考えると、やっぱり運命は決まっているものではなくて、自分でつくっていくものなのだと思います。

人生はいつもさまざまな選択を迫られます。カフェに来てメニューを選ぶ。美容院でどういう髪型にするか選ぶ。大学で授業を選ぶ。仕事のオファーを受けるかどうか選ぶ。どっちの方向に進もうか迷ったときこと、何が起こるかわからない方を選ぶと運命も変わり、未来が開けるのかもしれません。

今週末行われる Buddhism x ALIFEイベントでは、私たちがより良く生きるために、どう行動し決断していけばいいのか。浄土宗僧侶の掬池友絢さん、友人の渋谷仁美さんと、仏教とALIFEという観点からお話をする予定です。

イベントで話したことはこのnoteでもご報告できればと思っています。仏教というレンズを通すと「運命」とはどのように捉えられるのでしょうか。

仏教 x ALIFE。普段はあまり交わらないテーマだからこそ、普段はたどり着けない隣接可能空間を開いてくれそうな鼎談となりそうです。

今日も最後まで読んでくれてありがとうございました。
ciao!


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