
『貝の火』 宮沢賢治
水絹望音です。
『貝の火』は、主人公の兎のホモイが「貝の火」という美しい宝珠を授かるものの、慢心によって悲劇的な結末を迎えてしまう話です。
美しい宝珠「貝の火」は、それはそれは美しく表現されています。
ホモイは玉を取りあげて見ました。玉は赤や黄の焰をあげて、せわしくせわしく燃えているように見えますが、実はやはり冷たく美しく澄んでいるのです。目にあてて空にすかして見ると、もう焰はなく、天の川が奇麗にすきとおっています。目からはなすと、またちらりちらり美しい火が燃えだします。
「見える、見える。あそこが噴火口だ。そら火をふいた。ふいたぞ。おもしろいな。まるで花火だ。おや、おや、おや、火がもくもく湧いている。二つにわかれた。奇麗だな。火花だ。火花だ。まるでいなずまだ。そら流れ出したぞ。すっかり黄金色になってしまった。うまいぞ、うまいぞ。そらまた火をふいた」
それはまるで赤や緑や青や様々の火がはげしく戦争をして、地雷火をかけたり、のろしを上げたり、またいなずまがひらめいたり、光の血が流れたり、そうかと思うと水色の焔が玉の全体をパッと占領して、今度はひなげしの花や、黄色のチュウリップ、薔薇やほたるかずらなどが、一面風にゆらいだりしているように見えるのです。
貝の火の美しさは、まるで生命そのものが凝縮されているかのような輝きを放っているようです。
さて、そんな美しい貝の火を手に入れたホモイの心は徐々に変化していきます。
「うまいぞ。うまいぞ。もうみんな僕のてしたなんだ。狐なんかもうこわくもなんともないや。おっかさん。僕ね、りすさんを少将にするよ。馬はね、馬は大佐にしてやろうと思うんです」
「お母さん。僕はね、うまれつきあの貝の火と離れないようになってるんですよ。たとえ僕がどんな事をしたって、あの貝の火がどこかへ飛んで行くなんて、そんな事があるもんですか。それに僕毎日百ずつ息をかけてみがくんですもの」
ホモイは、「もうみんな僕のてしたなんだ」と、慢心に陥っています。
授かった貝の火も、うまれつき自分の元から離れないような存在なんだ、とまで言っています。
やがて、貝の火は曇り、バチバチと煙のように砕け、その粉が目に入り、ホモイは失明してしまいます。
それにホモイの目は、もうさっきの玉のように白く濁ってしまって、まったく物が見えなくなったのです。
そして、そんなホモイに父がかけた言葉も非常に印象的です。
「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、いちばんさいわいなのだ。目はきっとまたよくなる。お父さんがよくしてやるから。な。泣くな」
父親の善悪に対する態度
さて、悲劇的な結末を招いてしまった原因は、ホモイだけにあったのでしょうか?
ホモイ。お前は馬鹿だぞ。俺も馬鹿だった。
ホモイの父は、「俺も馬鹿だった」と言います。そうなんです。悲劇的な結末を招いてしまった責任の一端は、父親にもあるように思えるのです。
それは、なぜか。
下の台詞は、むぐらを脅したホモイを咎める父の発言です。
お前はもうだめだ。貝の火を見てごらん。きっと曇ってしまっているから。
むぐらを脅したことは、悪いことであるとはっきりホモイに伝えています。これは、父親としてあるべき姿です。
しかし、貝の火が美しく光っているのをみると、途端に態度を変えてしまうのです。
みんなはうっとりみとれてしまいました。兎のおとうさんはだまって玉をホモイに渡してご飯を食べはじめました。
この後の展開でも、貝の火が美しく光ってさえいればすぐに態度を変えてしまうのです。しまいには、狐が盗んできた角パンも一緒に食べてしまう始末です。
つまり父親は、善悪の価値判断を「貝の火の美しさ」に委ねてしまっているのです。
そして、自分の愚かさに気づいた時には、貝の火は曇ってしまっているのです。
ホモイの慢心を助長した一端には、このような父親の善悪に対する態度もあったのではないでしょうか。
貝の火では、ホモイは悲劇的な結末を迎えてしまいました。さて、私たち(ホモ・サピエンス)は、ホモイとは違う結末を導けるのでしょうか。